「仲間」のバグーーラベルを焼却した後の静寂
【#067_THE_INVISIBLE_CAGE——Human Bug Report】
現代で軽々しく飛び交う「仲間」や「絆」という言葉。
人間がこれほどまでに「枠組み」を求めるのは、裸の自分(個)として宇宙の静寂に耐える勇気がないからだ。私たちは「仲間」というラベルを貼ることで自らの空虚を埋め、同時に他者の自由を去勢している。
アニメの影響だろうか。いい大人が分をわきまえもせず「仲間」や「友達」などと口にするのは、見ていて滑稽であり気味悪くもある。
本来の「仲間」という言葉は、良い関係も悪い関係も含む言葉である。
言葉で確認しなければならない程度の関係なら、最初から必要ない。周知の事実であれば、黙っていればいい。言葉で確認しあう必要はない。
私は「友達も仲間もいないし、いらない」とはっきり公言している。それで困ったことなど一度もない。人付き合いを断つわけではないのだ。ただ、不毛な飲み会やプライベートへの侵入を許さないだけだ。 属さないことの不利益より、属することで自由を奪われる不利益の方が、私には遥かに重い。
去る者は去ればいい。
友人も同じだ。会う回数が少ないと友達ではないと思う人もいれば、1度会えば友達と言う人もいる。人によって定義が異なり過ぎる言葉であり一方的な友人認定なのである。頻繁に敢えて使うことは不要だ。
時代劇に、こんな定番の台詞がある。
「これを受けてくれれば、悪いようにはしない。悪い話じゃないだろう?」
子供ながらに、「悪い話しでしかない」と感じていた。大抵、提案を断れば次に脅しが始まる。現代の「仲間」という契約の裏側にも、これと同じ強制力が自動的に働いているのである。
■ フランス革命の「友愛」という名の断頭台
「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命。この「友愛(Fraternité)」という枠組みが導入された瞬間、皮肉にも凄惨な恐怖政治が始まった。「仲間」であることを証明できない者は、即座に「非国民」として排除される。言葉で「枠」を作った瞬間に、その外側には「殺すべき敵」が自動生成されるのだ。
「仲間」という言葉の本質は「選別と排除のアルゴリズム」なのである。
■ 聖典の警告 —— 「枠組み」という名のノイズ
特定の身内だけを慈しむ「限定的な仲間意識」の傲慢さを、聖典はこうデバッグしている。
『マタイによる福音書』第5章46-47節:
「自分を愛してくれる人を愛したからといって、何の報いがあるだろうか。取税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したからといって、どれほど勝ったことをしたことになるか。」
『コーラン』第63章9節:
「信じる者たちよ、あなた方の富も、あなた方の子ら(身内・仲間)も、あなた方をアッラー(真理)の想起から引き離してはならない。そうする者は、自らを損なう者である。」
特定の「仲間」という枠の中だけで完結する親愛は、誰にでもできる低次な処理(エラー)に過ぎない。
■ ニーチェの警告 —— 「自分に耐えられない者」の逃避
私の好きな哲学者ニーチェは、馴れ合うことを「隣人愛」と称して美化する人々を冷徹に射抜いた。
「君たちは隣人へと逃げ込み、それを美徳にしようとする。それは君たちが自分自身に耐えられないからだ。」
孤独に向き合えない弱者が、互いの傷を舐め合い、個の力を削ぎ落とすために作るのが「仲間」という幻想だ。自立した個は、誰かに自分を定義させる必要も、誰かを檻に閉じ込める必要もない。
■ チャーチルの「二人の友人」—— 引き算による本質
第二次世界大戦を勝ち抜き、無数の人々に囲まれたウィンストン・チャーチル。彼は晩年、こう語った。 「人生において、二人の真の友人に恵まれたなら、その男は十分に幸せである」 世界を動かした英雄が最後に辿り着いたのは、広大なネットワークではなく、引き算の果てに残った「二」という究極の定数だった。真の繋がりは、数や宣言(ログ)の中には存在しない。それは人生という過酷なデバッグを経て、最後に静かに残る本質なのである。
■猫の「非干渉の共鳴」—— 接続しない同期
足元で寝ている猫を観測せよ。
彼らは決して「今日から私たちは仲間だニャ」などという、無粋な言語化を必要としない。
気が向けば、ただ重力に従うように寄り添い、気が向かなければ、風が凪ぐように去っていく。その絶対的な「個(スタンドアロン)」のままで、ただ同じ空間の周波数を共有している。「孤独なままで、完璧に調和できる」。
■ ラベルの焼却
若いころは飲み会を断っただけで協調性がない変人扱いであった。今は時代の流れで強制はされないだろう。ただし、暗黙的な扱いを受ける事もある。昔も今も変わってはいない。「仲間」に入ると仕事のミスを不問にされたり、高評価を貰えるなどのプレミアがあるのも周知の事実である。しかし、それも一時の事である。長い目でみて私は不利益を被ったとは思っていない。人間としての軸があれば認められる事もある。再度、不遇な時代が訪れることもある。
その繰り返しがあるだけなのである。
良好な関係に、宣言は不要だ。「仲間」というラベルを求める心には、常に「他者を自分の色に染めたい」という支配欲と、「一人になるのが怖い」という生存本能のノイズが混じっている。
「絆という鎖を断て。ラベルのない親愛を、そのまま実行する。」
不自然な枠組みを捨て、ただ隣にいる存在と、静かに呼吸を合わせるだけでいい。枠組みがないからこそ、あなたは誰とでも好意的に接することができ、同時に、誰にも縛られずに「個」として輝くことができる。
絆という言葉で他者を縛るな。自分を縛らせるな。 騒がず、定義せず、ただ好意的にそこに在る。 その「ラベルのない静寂」こそが、最も高度で、最も自由な通信プロトコルである。
可能な限り、心のままに生きよう。猫の様に。
