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論語の構成 6・孔子と殷

前回はこちら。


儒とは殷の遺民


孔子と殷の関係についてここらで説明しておいた方がよさそうなので、今回は論語自体には触れません。
孔子と殷の関係は、元は胡適(1891 - 1962)の言い出したことです。

1934年の論文、「説儒」で彼は、儒とは殷の遺民であると主張しました。
くだんの論文、ネットで見つけてDeepSeekで翻訳したので置いておきます。長いですが読む価値あります。読む価値ありますが長いです。本稿最後まで読んだ後でも、リンク開くのは遅くないです。

今日では明らかに間違いとわかる部分もありますが、それでも非常に優れた内容です。キレが桁違いです。凄い人ですね。その後白川静など色々な意見が出ましたが、この件に関しては胡適の功績が最大でしょう。

孔子は、自身が語っているように殷の遺民です。その孔子がなぜ周の文化を
「周は二代(夏・殷)に監(かんがみ)て、 郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな、 吾は周に従わん」
と言ったのか。殷よりも周だと言ったのか。そこのところが孔子を考える上で最大のポイントになります。事態は少々複雑なのです。
孔子は自称哲人、つまり思想家であり政治家でもありました。そしてその両方で、現状追認の部分と現状改革の部分を持つのです。

殷の性質

「殷墟」という遺跡があります。甲骨文字が大量に出土する場所です。人間の骨も大量に出ます。物凄い数の犠牲を使っています。

周りのまつろわぬ民、殷から見れば野蛮人たちと戦争をします。大量に捕虜を確保します。殷の貴人が死ぬと、その捕虜たちも殺します。動物も殺します。それらを貴人といっしょに埋めます。不自然なほどの数です。殷は残虐な文化を持っていたのです。ですから孔子は、自分が殷人でありながら、周の文化を称えた。殷のままではダメだと分かっていた。

多くの人が連想していることですが、この殷の文化はメソアメリカ文明に酷似しています。オルメカ、マヤ、アステカの文明は人間の犠牲を大量に消費する文化でした。どうも古いモンゴロイドの共通の文化ではないか。

実は骨を焼いて占いをする文化も、中国にも、シベリアにもあり、北米にもあったそうです。しかし中米には存在しない。アラスカを超えて大陸にわたった人達が、古い文化の一部はやがて忘れたが、人身犠牲の部分は忘れなかったということなのでしょう。
殷とメソアメリカは造形能力の高さも共通でして、

殷・青銅器
殷・青銅器
オルメカ・ヒスイのマスク
オルメカ・幼児像


才能ありすぎて不気味ですね。
メソアメリカの人々は、生贄を与えないと太陽が衰弱すると考えていたようで、彼らも戦争捕虜をバンバン生贄にしていた。やや言いにくいことですが、生贄にするということは、儀式が終わった後みんなで食べたという事です。殷も恐らく大量に食べていたでしょう。中国は食人の風習がかなり後世まで残った文化ですが、文明の始まりが殷にあるのですから、当然といえば当然です。
そう言えば殷の紂王の前の王が、血の革袋を太陽に見立てて弓で射たという話もありました。

殷の王は自分を太陽以上に偉いと思っている、傲慢だと非難されるのですが、あれなんかもメソアメリカの視点から見れば血の犠牲を捧げることによって太陽の生命力を維持しようとしたのだ、と解釈できます。それが殷の風習であっただけで、太陽を大事に思っていたからやったことを、結果的に周に滅ぼされたものだから「自分を太陽以上の存在だと思っている」と傲慢の象徴とされてしまうのですね。
論語にあります

子張第19-20 
子貢が言った。「紂王の悪徳は、世間で言われているほどひどいものではなかった。だから君子は、悪い評判のたつ場所に身を置くことを嫌うのだ。一度そういう立場に立つと、天下の悪い評判がすべてそこに集まってきてしまうからである。」

子張第19-20 

こういう話は面白いのですが、あまりやり過ぎるとただの月刊ムーになりますので自制しますが、鳥の話だけは触れなければいけません。
メソアメリカは鳥信仰が盛んでした。ケツァルコアトルという鳥の神様が居ます。場合によっては胴体がヘビになっていまして、鳳凰と竜のちゃんぽんのようなスタイルです。

ところが殷も鳥信仰の文化なのです。

なにしろ始祖はツバメの卵です。史記殷本記置いておきます。赤字が鳥信仰に関わる文章です。

孔子の立場

孔子は殷人ですが、そういう殷=メソアメリカ的ドロドロ世界を信じるには頭が良すぎました。だからドロドロ世界をもっと理知的な、スマートなものに変えたかった。
孔子の晩年の弟子に子夏という人物が居ます。

子夏の弟子が西門豹(せいもんひょう)という人物です。つまり孔子の孫弟子です。史記に西門豹の面白いエピソードがあるので掲載します。

魏の文侯の時代、西門豹が鄴の県令となった。豹が鄴に到着し、長老たちを集めて、民の苦しみを尋ねた。長老が言うには、「河伯(河の神)に嫁を娶せることで苦しんでおり、そのために貧しくなっております」と。
豹がその理由を尋ねると、答えて言うには、「鄴の三老や廷掾(役人)は毎年百姓から賦斂(税)を取り立て、その金を集めて数百万を得、そのうち二、三十万を用いて河伯の嫁取りをし、残りの金を祝巫(巫女)と分け合って持ち帰っております。その時になると、巫女が巡って小家の娘で美しい者を見つけ、『この娘こそ河伯の妻となるべきだ』と言い、すぐに聘礼を送って娶ります。娘を沐浴させ、新しい絹や綺羅(きら)の衣を縫い与え、別居させて斎戒させます。また河のほとりに斎宮を設け、緹絳(たいこう)の幕を張り巡らし、娘をその中に住まわせます。そして牛や酒、飲食を用意して、十数日をかけて飾り立てます。まるで嫁入りの床や席を整えるようにして、娘をその上に座らせ、川に浮かべます。初めは浮かんでいますが、数十里行くと沈みます。
良い娘を持つ家は、大きな巫女に河伯の妻として取られるのを恐れ、そのために娘を連れて遠くへ逃げる者が多くいます。そのため町はますます空っぽになり人がいなくなり、また貧困に苦しんでいます。これは昔からずっと続いてきたことです。民衆の間では『河伯に嫁を娶せなければ、水が来て溺れ死にさせられる』という言い伝えがあります」と。

(中略)

その時が来ると、西門豹は川辺に集まった。三老、官属、豪族の長老、里の父老たちが皆集まり、民衆も見物に来て二、三千人に及んだ。その巫女は老女で、すでに七十歳になっていた。弟子の娘たち十人ほどが、皆絹の単衣をまとい、大巫女の後ろに立っていた。
西門豹が言うには、「河伯の嫁を呼び寄せよ、その美醜を見よう」と。すぐに娘を帷(とばり)の中から連れ出し、前に来させた。
豹はそれを見て、振り返って三老や巫女、父老たちに言うには、「この娘は美しくない。大巫女(おおみこ)に煩わせて河伯のところへ行って伝えてもらい、もっと美しい娘を求めて、後日送ろう」と。そしてすぐに吏卒に命じて大巫女を抱えさせて川に投げ込ませた。
しばらくして言うには、「巫女はなぜ長くかかるのか? 弟子が行って催促せよ!」と。また弟子の一人を川に投げ込ませた。
しばらくして言うには、「弟子はなぜ長くかかるのか? また一人行って催促せよ!」と。また一人の弟子を川に投げ込ませた。合わせて三人の弟子を投げ込んだ。
西門豹が言うには、「巫女や弟子は女子であり、うまく取り次げないだろう。三老に煩わせて河伯のところへ行って伝えてもらおう」と。また三老を川に投げ込ませた。
西門豹は簪(かんざし)を挿し、磬(けい)のように身をかがめて、川に向かって立って長く待った。長老や吏、傍らで見ていた者は皆、驚き恐れた。西門豹が振り返って言うには、「巫女も三老も戻ってこないが、どうしたものか」と。さらに廷掾と豪族の長老の一人を川に送って催促しようとした。皆、額を地面に叩きつけて拝み、額は割れて血が地面に流れ、顔色は死人のように青ざめた。
西門豹が言うには、「よし、しばらく待とう」と。しばらくして、豹が言うには、「廷掾よ、立ち上がれ。どうやら河伯は客を長く留めているようだ。皆はもう帰ってよい」と。
鄴の吏民は大いに驚き恐れ、これ以降、再び河伯に嫁を娶せる話をする者はいなくなった。(後略)

非常に痛快な話です。しかし孔子は元来、このタチの悪い祝巫たちの同類なのです。だからこそ、儒教に理性を注入しようとした。
では一方的に殷が悪く、周が良いと考えていたのか。そうではありません。シリーズの最初にご紹介した丘信夫の記事ご参照ください。

八佾第3-21

哀公(魯の国君)が、土地の神を祀る「社」に植える木について、孔子の弟子の宰我に尋ねた。
宰我はこう答えた。
「夏王朝では松を植え、殷王朝では柏(ヒノキの類)を植えましたが、今の周王朝では栗(くり)を植えています。その心は、『民を戦慄(身震い)させる』ためだと言われています。」
(後で)これを聞いた孔子は(宰我が余計な皮肉を言って君主を煽ったことを苦々しく思い)こう言われた。
「できてしまったことは、もう説明してもしかたない。やり遂げてしまったことは、もう諫めてもしかたない。過ぎ去ったことは、もう咎めだてしないことにしよう。」

八佾第3-21

ここで孔子は宰我の言い過ぎに不快になっていますが、宰我が間違っているとは一言も言っていません。つまり、宰我の言っていることは正しいのです。周は征服王朝です。殷の遺民たちを制御する立場です。恐怖で支配するしか制御の方法はありません。孔子も殷人ですから、周のそういうやりかたは不快だったはずです。だから宰我の発言を、否定もしなければ咎めることもしない。「内容的にはその通りだ」が孔子の本音です。ただ魯の君主(むろん周系です)につっかかる宰我に表立って賛成もできませんから。

孔子の伯夷叔斉に対す異様なまでの肩入れも、周に対する反発と見てよいです。なぜなら伯夷叔斉は周の殷征伐に反対して世を捨てて餓死したのですから。もしも周を全面的に認めるのならば、伯夷叔斉を肯定できるはずが無いのです。つまり孔子は周を全面肯定しているわけではない。

殷もダメなところがある。周もダメなところがある。そう思っていますから孔子は、論語の中では二項対立物語で描かれます。

向かって左が殷的要素、右が周的要素と言えるかもしれません。


胡適の言うように、折衷案です。
全ては征服王朝である周が、それほど強大ではなかったことが原因です。

殷周革命

当時の軍事力とはだいたい馬のことでして、周は中国の中では西、つまり内陸部に位置しますので馬には事欠かない。その上殷は捕虜を大量殺戮みたいな無駄ばかりやっているので、周と戦って敗けてしまいます。
殷周革命における周とは、後の時代のモンゴルとか女真のようなものです。中国大陸のマジョリティーは革命の後も相変わらず殷系です。周はトップを倒したというだけです。ついでに庶民も倒すと税収がなくなりますのでそれはできませんから、周はあの手この手で大陸の支配を固めようとします。

まず殷の反乱を抑えるために、殷の最後の紂王の息子を、殷の本拠地、紂王が死んだ場所あたりに据えて支配させます。武庚という殷人です。武庚ならば殷人たちをコントロールできるだろう、周としては武庚をコントロールすればそれでよし、だったのですが武庚が反乱を起こします。三監の乱と言います。ここら辺資料が薄くて年代も経緯もあやふやなのですが、年表にするとだいたいこうなります。

周公旦による反乱鎮圧後、周王朝にはやることが二つ残りました。

1・武庚が治めていた土地を、反乱を二度と起こさないように周系の人物に統治させる
2・それ以外のどこかに殷系の支配地域を作って、大多数である殷人の感情を吸収させる

それで解決策ですが

1・武庚が治めていた土地→周公旦の弟が統治(衛の国)
2・それ以外の殷系の支配地域→紂王の庶兄の微子啓に別の土地に建国させる(宋の国)

となりました。周公旦自身は子どもに魯の国を建国させます。

周公旦

さてところで、孔子は元来宋の国の家系で、魯の国で生まれ、晩年衛の国に長期滞在していました。周初のゴタゴタを500年後に再現したのが孔子なのです。彼が500年前に全部のゴタゴタを綺麗に終息させた周公旦に憧れる気持ちは、それなりに理解できます。
宋の国は紂王の兄の国ですし、衛の国は元は紂王の子が治めていた場所、両方とも圧倒的に殷系が強い場所です。

宋の国は殷系ですので、殷と同じく鳥信仰あります。
史記・宋微子世家置いておきます。赤文字が鳥からみです。

宋は孔子の生まれる80年前、春秋時代の襄公の時にほんの一瞬だけ覇者になりますが、それは国力を無視した誇大妄想的活動によるもので、すぐに南方の楚に敗れて没落してゆきます。武庚に続く殷系二度目の野望でしたが、あえなく潰えています。孔子は宋の襄公についてなにもコメントしていません。知っているはずなのに。触れたくない、というのが本音だったのでしょう。

孔子は元をたどれば宋の創業の微子の、つまりさかのぼれば殷の王族の血筋だという説もあるようですが、眉に唾をつけて聞いておきましょう。その孔子がなぜ衛の国に長期滞在していたか。衛が殷の昔の本拠地だからです。殷の遺民を頼って衛に居たのです。宋はもう敗けてしまって余力なんかありませんから。

もし孔子にもっと人気があれば、武庚の如く反乱を起こしても不思議ではありませんでした。しかしそこまでは人気は無かった。もちろん実力もなかった。でも野望は十分ある。だから反乱軍から参加のお誘いが来るたびに、孔子はグラついてしまいます。あまり勝ち目がなさそうな連中にも、とりあえずは一旦フラフラ靡いてしまいます。
しかし結局彼は成功は出来ずに終わります。武庚→宋の襄公→孔子、殷系の野望はいずれも失敗、どころが客観的に見ればどんどん下火になってゆくだけでした。

中島敦の「弟子」の終わりの部分を掲載します。

(前略・衛の国に就職した子路は、政変に際して逃げずに主人を救おうとする)

 子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟を明らかにした。罵声が子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体に当った。敵の戟の尖端が頬を掠めた。纓(冠の紐)が断れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃の下で、真赤に血を浴びた子路が、最期の力を絞って絶叫する。
「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
 全身膾のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。
 魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴(子羔)や、それ帰らん。由(子路)や死なん。」と言った。果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目することしばし、やがて潸然として涙下った。子路の屍が醢にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、醢は一切食膳に上さなかったということである。(終わり)

醢というのは、要は肉の塩漬けペースト(肉醬)です。場所は衛の国です。かつて紂王が死に、息子の武庚が周によって建てられたが反乱を起こして鎮圧された土地、殷系が最も多く、孔子も長期滞在した場所です。殷系の土地らしく食人の風習が濃く、子路も食用にされてしまいました。

子路は孔子の弟子の中で最も古い世代で、生涯の大半を二人三脚で歩いていました。前年に最愛の弟子顔回が死に、この年子路は殺されミンチになり、翌年孔子は死にます。死の直前、弟子の子貢に自分は殷人であると告白します。彼は自分自身の文化的背景とも戦っていたのです。弟子と言うより盟友を食用にされて敗北に終わりましたが。
しかし思想家の仕事が自分自身と向き合う事だとするならば、孔子は本物の思想家でした。鏡の向こう側に居る自分達の醜い姿に目を逸らさず、脂汗を流す苦しい作業を継続できる、根源的な勇気を持った人物でした。食人の殷、恐怖政治の周、いずれも良くない部分がありながら、なんとか中庸でより良い状況を成立させようと内面の苦闘を繰り返していたのです。

孔子は成功せずに終わりましたが、しかし禍福はあざなえる縄の如し、戦国の動乱の中で大逆転が起きます。孔子の死後250年程度経って、殷系の勢力が中国を統一するのです。秦です。

秦は戦国時代は西方に居ましたから、元来西方の遊牧民あたりの出自だと思ってしまいますが、実は違います。元来は山東省の中部~南部の商奄という地域に居住していました。その後の地名では「曲阜」に該当します。曲阜とは孔子の生まれた魯の首都です。ここらへんには昔から「嬴(えい)」という地名があったそうで、始皇帝の家系はここから出ています。
彼らは殷系ですから、前述の三監の乱に参加し、あえなく敗北します。勝者の周は彼らを西方に追放して、異民族から中華を守る役目を与えます。西方に移住した彼らは秦を名乗るのですが、殷、宋と同じ勢力ですのでもちろん鳥信仰あります。史記・秦本紀置いておきます。冒頭のみですが。

始皇帝と言えば兵馬俑ですね。あそこまで大量の人形を埋めたのは、やはり秦が殷系だからです。本当は人間を埋めたいのですが、そうすると兵隊の数が足りなくなるのでやたらリアルな人形で替わりにしました。

造形能力が無駄に高いのも、先祖伝来のものです(イラン系の影響も噂されていますが)。

秦は韓非子の法家を主軸思想としました。韓非子の師匠は荀子です。荀子は儒家です。つまり法家は儒教の派生宗教というか派生思想です。実は前述の西門豹も儒家というより法家だとされています。当然合理的です。しかし法律はロジックですので、それにより人心が安定するという性質のものではありません。中華は統一できましたが、すぐに動乱が発生して滅亡します。

秦の滅亡後中国に長期政権を築いたのは漢です。漢王朝の始祖の劉邦は、豊邑というところの生まれです。豊邑は劉邦が生まれた時は楚に併合されていましたが、元来は宋の国でした。劉邦自身は名もなき庶民の生まれなのですが、生活していた文化圏は間違いなく宋のもの、つまり殷系文化の人物です。
ようするに、秦も漢も広い意味での殷系なのです。春秋戦国の動乱の結果、最終的に殷が周を打倒したのです。

春秋時代の地図、系列の色分けです。青が周系です。斉は魚釣りで有名な太公望の国ですから、周の王族とは違いますがまあ周系です。中国中心部はほぼ周系なのです。それでも結局殷系の秦が天下を統一し、それを宋生まれの漢が引き継いだ。

劉邦は庶民ですから鳥による始祖神話もなく、鳥信仰も下火になりました。兵馬俑にも凝りません。しかし殷人孔子が始めた儒教は漢王朝の中で徐々に力を増大させてゆき、やがて後漢に至って完全に国教となりました。時間はかかりましたが、孔子の勝利です。
ビザンツ帝国は1000年持ちました。キリスト教は成功宗教と言えます。しかしビザンツは最後の方は領土がほとんどなくなっていた。それに比べて前漢後漢合わせて400年も広大な領土を維持したのですから、儒教も実は大変成功した宗教です。孔子の執念というか誇大妄想が見事に実を結んだのです。

さて、延々と書いて来て、ここからがようやく本稿の主題なのですが、しかしながらその大成功した漢王朝の儒教は、孔子の儒教から大幅に変容してゆきます。当然ですね。殷と周の矛盾のはざまで苦闘していたのが孔子ですが、殷系の勝利でそもそも矛盾がなくなった。孔子の苦しんだツボが存在しなくなったのです。

子路第13-21
孔子がおっしゃった。「中庸の道を歩む人を得て、その人とともにしようと思ってもそれができないなら、いっそ狂人か狷介(けんかい)な人物を選ぶべきだ。狂人は意欲にあふれて進んで事を成し遂げようとし、狷介な人は自分の信念に背くことはあえてしないからである。」

子路第13-21

論語には、中庸でなければ殷的なトランス的、巫術的状態を良しとする、殷的な価値観がはっきり残存しています。理性を重視した孔子ですが、たとえ非理性的でも、周的な止まった状態よりはマシだと思っているのです。殷のドロドロを克服したいと思いながらも、より根源的には周を憎んでいますから。実に複雑な人物です。

しかし漢代の儒教は、「外法内儒」という言葉があるように、法家のロジックを儒教的感情で若干ソフトにしただけのものです。帝国統治のために、大人しい礼儀を重視するだけの教義になってゆくのです。そこでは孔子は単純な周文化礼賛者になり、哀公問社の章は単純に宰我が非常識、という理解に落ち着きます。

前漢に書かれた司馬遷の史記には、宰我についてまとめた記事が存在します。ほぼ論語とカブりますが、哀公問社のエピソードは掲載されていません。

史記仲尼弟子列伝より宰予(宰我)

宰予は、字を子我という。弁舌が巧みで、口が達者であった。孔子の教えを受けていたとき、こう問うた。「三年の喪(服喪期間)はあまりに長すぎるのではないでしょうか。君子が三年もの間、礼を行わなければ礼は必ず廃れてしまう。三年の間、楽を行わなければ楽は必ず崩れてしまう。古い穀物がなくなり、新しい穀物が実り、鑽燧(火起こしの道具)も一巡するのですから、一年で十分ではないでしょうか。」孔子が言った。「それをしてあなたは心安らかか。」宰予が「はい、心安らかです」と答えた。孔子は言った。「心安らかであるなら、そうしなさい。君子は喪に服している間は、美味しいものを食べても甘いと感じず、音楽を聞いても楽しいと感じないから、あえてそうしないのだ。」宰予が出て行った後、孔子は言った。「予は仁を欠いている。子は生まれて三年の間、父母の懐から離れられない。その三年の喪というのは、天下の共通の道理なのだ。」

宰予が昼寝をした。孔子は言った。「朽ちた木には彫刻を施せないし、糞土の壁には塗装を施せない。」

宰我が五帝の徳について問うた。孔子は言った。「予はそういう話を聞くべき相手ではない。」

宰我は臨淄の大夫となったが、田常の反乱に加わり、そのために(宰我の)一族は皆殺しにされた。孔子はこれを恥じた。

史記仲尼弟子列伝より宰予

論語を読む限り、儒教のありかたそのものについて最も抜本的な思考が出来たのはおそらく宰我です。しかしダメキャラとして評価が前漢に定着してしまった。
司馬遷が史記を書いたのは、春秋を書いた歴史家としての孔子の跡を継ぐためです。だから孔子は史記の中で別格の扱いを受けています。ただの教師で終わったのに、孔子世家、つまり諸侯として掲載されています。列伝でも冒頭は、孔子が称揚した伯夷叔齊です。
その孔子崇拝者の司馬遷にして、儒教理解、孔子理解はいかにも漢代一般のそれです。司馬遷と同時代に「郷挙里選」なる制度が確立します。親孝行な人物を官僚候補として推薦する制度です。狂人や狷介な人物の居場所は完全に無くなりました。

その後の中国

やがて後漢が滅亡し、中国は再度動乱の時代に入ります。長い時間をかけてそれらは統一されてゆき、隋唐の時代に入ります。
唐の時代を舞台にした「西遊記」では、三蔵法師というお坊さんがインドに旅をします。仏教のほうが儒教より強くなった。西遊記では三蔵一行は道士としょっちゅう争います。道士は道教のお坊さんのようなものです。仏教、道教、儒教が併存している状態です。
唐が滅びてまた戦乱の時代になりますが、趙匡胤という人物が中国を統一します。

彼は一時期、昔の宋の国の場所で節度使をやっていましたので、そこからとって国号を「宋」にします。しかしもう殷の文化は全く残っていません。国号が一緒なのはただの偶然です。そうです偶然に決まっています。

偶然なのですが、宋は儒教国家になります。皆さんの手元に論語があるとしたら、大抵の場合北宋の程伊川、南宋の朱熹の影響下にあるものです。現代日本人の触れている儒教は宋代のものなのです。漢代に続く論語のバージョンアップです。
と言うとよく聞こえますが、実体は孔子の二項対立の思想の抹殺です。漢王朝で意味が十分取れなくなった論語は、宋王朝でさらに意味不明の文章に成り下がりました。「誠不以富」の移動論なんか典型ですね。近代文学専攻学部生なら普通に意味が取れる文章も、まったく理解できなくなっている。

程も朱も法学をやれば、多分向いていたのです。法的な、一義的な整合性について延々と考えることができる。詩経を重視した、中庸でなければ狂か狷だと言った孔子の資質からは最も遠い人です。

その宋は、軍事力は高いとは言えず、最初は金という遊牧国家に圧迫され、のちにモンゴルに飲み込まれます。しかし経済的には文字通り殷賑を極めます。宋のテクノロジーは当時の世界のトップだったそうです。宰相の王安石の経済政策なんぞ、世界の潮流を数百年先取りした優れたものでした。と言うのは北宋では最初兌換紙幣、のちには不換紙幣を発行するようになったからです。貨幣が増えれば経済は発達し、経済思想も深化します。

しかし残念ながら宋は君主が悪かった。徽宗という中国暗君史上でも頂点に君臨する、本当にどうしようもない皇帝が出現して、殷人のごとく贅沢三昧のあげくに全てを失います。
その徽宗は無駄に美術能力が高かった。自分で極めて精密な絵を描いた。中国皇帝の中では最高の才能です。そして描いた絵は、なぜか鳥の絵なのです。

もちろんただの偶然です。そうです偶然に決まっています。でも宋の呪いというか、殷の呪縛というか、月刊ムーの支配力というか、非常に変な気分になりますね。殷周革命から北宋まで既に2000年が経過しています。孔子の同時代的切迫感の基盤は、完全に消滅しています。宋以降の儒教は、いわばすべて架空の物語になっているのです。しかし逆に言えば、架空の物語にここまでエネルギーを傾けられたのは、中国社会の心の奥深くに殷という文化がよほど大きく存在していたのだろう、という気もするのです。

宋の儒者と、徽宗皇帝を、足して二で割ると孔子様に近いのではないかなと、時々思います。
私達日本人は、縄文系、弥生系という二分法をよく使いますが、中国も殷的、周的という二分法でかなりのところまで理解できそうです。逆に言えば、2500年程度前から、縄文的、弥生的のような考えが出来た人物が孔子です。


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