君のクイズ/小川哲【読書ノート】
知識ではなく、人生が早押しボタンを押す
小川哲『君のクイズ』は、ものすごく単純な謎から始まる。
生放送のクイズ番組『Q-1グランプリ』決勝戦。三島玲央と本庄絆は6対6で並び、次の一問を取った者が優勝する。
司会者が問題を読み上げようとする。
ところが問題文が一文字も読まれていない段階で、本庄がボタンを押す。
そして正解する。
答えは「ママ.クリーニング小野寺よ」
なんだそれは。
ここで読者にも、主人公の三島にも同じクイズが出題される。
「本庄絆は、なぜ一文字も問題を聞かずに正解できたのか?」
この一問だけで物語を最後まで引っ張る。設定だけ聞けば、一発ネタのようにも思える。ところが読み進めるうちに、謎はむしろ逆方向へ広がっていく。
最初は「どうやって答えたのか」というミステリーだったはずなのに、いつの間にか「人間はどうやって何かを知るのか」「知識とは何なのか」「正解とは誰のものなのか」という話になっている。
そこが、この小説の一番面白いところだ。
クイズは「物知り選手権」ではない
この作品を読んでまず崩されるのが、クイズに対する素朴なイメージだ。
クイズが強い人とは、たくさん物事を知っている人だと思ってしまう。
しかし競技クイズでは、それだけでは足りない。
「答えを知っていること」と「クイズで正解できること」は別の能力だからだ。
問題文には独特の構造がある。どんな単語から始まり、どんな修飾が続き、どこで問いの方向が確定するのか。熟練したプレイヤーは、問題文を最後まで聞いてから記憶を検索しているわけではない。
途中まで聞いた段階で、候補を立ち上げている。
さらに重要なのは、答えそのものがまだ完全には意識へ上がっていなくても、「これは自分なら答えられる」という感覚が先に来ることだ。
だからボタンを押す。
押したあとで答えを完成させる。
この数秒にも満たない脳内処理を、小川哲は極端なスローモーションで描いていく。
著者自身も、本作を書く際に山際淳司『江夏の21球』を意識し、一問ごとに時間を止めてプレイヤーの思考を描く方法を採ったと語っている。肉体競技を文章化するのは難しいが、問いも答えも言語でできているクイズなら、小説そのものと非常に相性がいいという発想だ。
実際、この方法が効いている。
早押しボタンを押すだけの行為が、ボクシングのカウンターや野球の読み合いのように見えてくる。
これはクイズ小説であると同時に、一種のスポーツ小説なのだ。
一問答えるたびに、その人の人生が出てくる
しかし『君のクイズ』が本当に面白くなるのは、競技技術の解説からさらに一歩踏み込んだところからだ。
三島は『Q-1グランプリ』決勝戦を一問ずつ検証する。
なぜ自分はあの問題を押せたのか。
なぜ本庄は先に押したのか。
問題文のどこで答えが見えたのか。
その作業を繰り返していると、一問の背後から記憶が出てくる。
家族。
学校。
昔見ていたテレビ。
ラジオ。
友人。
恋人。
偶然耳にした言葉。
失敗。
恥ずかしい思い出。
人生の中で拾ってきた無数の断片が、いつかクイズの答えになる。
だから三島にとって知識とは、データベースに保存された情報ではない。
その知識を「いつ、どこで、なぜ知ったのか」まで含めて、自分の一部になっている。
斎藤美奈子の書評も、この作品の特徴を、正解の背後にプレイヤーそれぞれの人生が存在する点に見ている。
ここで本作は、ただのクイズ小説から記憶についての小説へ変わる。
たとえば同じ「パリ」という答えを二人が知っていたとしても、その二人にとって「パリ」は同じ知識ではない。
修学旅行で行った人。
恋人と別れた映画の舞台として覚えた人。
世界史の試験で暗記した人。
サッカーの試合で知った人。
それぞれ違う経路で、その単語へ到達する。
つまり知識には履歴がある。
この視点が非常に重要だ。
人間の記憶は百科事典ではない。
世界について知ったことと、自分が生きてきたことが絡み合っている。
だからクイズとは、蓄積した知識量を競うだけのゲームではない。
世界と自分との接点をどれだけ作ってきたかを試されるゲームでもある。
三島玲央は「正解」に自分を肯定してもらっている
ここから三島という人物が見えてくる。
彼は単なるクイズ好きではない。
クイズによって自分と世界との関係を確認している。
自分が昔見たもの。
興味を持ったこと。
偶然覚えていたこと。
何年も前に経験したこと。
それらが問題として現れ、自分が答える。
すると正解音が鳴る。
「あの経験は無駄ではなかった」と世界から言われたような感覚が生まれる。
だから三島にとってクイズは、人生を肯定してくれる装置でもある。
これはかなり危うい思想でもある。
なぜなら現実世界では、人生に正解音など鳴らないからだ。
転職すべきだったのか。
結婚すべきだったのか。
別れるべきだったのか。
あのとき反論すべきだったのか。
あの選択は間違いだったのか。
こうした問いには、司会者が「正解!」と言ってくれない。
ところがクイズの世界には正解がある。
だから気持ちいい。
この小説が描いているのは、知識欲だけではない。
人間が「正解のある世界」を欲しがる心理でもある。
そして三島は、本庄絆の人生まで解こうとする
本庄のゼロ文字正答を説明するために、三島は本庄の過去を調べ始める。
本庄は以前どんな番組に出演したのか。
どんな問題に答えたのか。
どこで育ったのか。
どんな経験をしたのか。
すると、あの奇妙な答え「ママ.クリーニング小野寺よ」につながる断片が見えてくる。
本庄は東京出身だが、父親の仕事の都合で中学三年まで山形で暮らしていた。そのため山形を中心に展開するこのローカルなクリーニングチェーンを知っていた。そして過去のクイズ番組でも同じ答えの問題に遭遇している。
ここまで来ると、ゼロ文字正答は超能力ではなくなる。
本庄は番組そのものを読んでいた。
出題者の癖。
番組制作側の狙い。
過去の出題。
対戦相手。
テレビ的に「おいしい展開」。
クイズの問題文だけではなく、その問題を出している環境全体を問題として認識していた。
つまり三島が解いていたのが「クイズ」なら、本庄は「クイズ番組」を解いていた。
この差は小さいようで大きい。
「ルールの中」を解く三島と、「ルールそのもの」を解く本庄
ここで二人の対立がはっきりする。
三島はクイズという競技そのものを愛している。
だから、問題文と知識とプレイヤーの技術によって勝負する。
一方、本庄はもっと外側を見る。
誰が問題を作っているのか。
どういう番組なのか。
何を放送したいのか。
自分にどんな役割が期待されているのか。
その構造までゲームに含めてしまう。
これは仕事にもよくある。
与えられた仕事を上手にこなす人と、「そもそも会社はなぜこの仕事をさせているのか」を考える人の違いだ。
試験問題を解く学生と、「この教師なら何を試験に出すか」を読む学生の違いでもある。
どちらもルール違反とは限らない。
しかし美学が違う。
三島には、本庄のやり方がどこか汚く見える。
一方で、競技結果だけを見れば、本庄は強い。
書評家の渡辺祐真が指摘しているように、本庄には番組の出題傾向を読む能力があり、個々の問題にも実際に正答している。三島の敗北は単純に「インチキに負けた」と処理できるものではない。
ここがこの作品の残酷なところだ。
自分よりその競技を愛していない人間に、自分が人生を賭けてきた競技で負けることがある。
努力が足りなかったからでもない。
才能がなかったからでもない。
相手が、自分とは違うゲームをしていたからだ。
最大のどんでん返しは「トリック」ではなく本庄絆という人間だ
ここから先が、この小説で最も好き嫌いが分かれる部分だろう。
三島は本庄の人生を調べ、ゼロ文字正答に至った事情を組み立てていく。
読者もそこに、ある意味で美しい物語を見たくなる。
過去の傷。
故郷。
記憶。
クイズとの出会い。
人生の出来事が一本につながり、奇跡のようなゼロ文字正答が生まれた。
そんな話ならきれいだ。
ところが小川哲は、そのまま感動的な話として閉じない。
本庄自身が、その物語をひっくり返す。
本庄にとってクイズは、三島ほど神聖なものではない。
彼はクイズを利用して知名度を獲得し、その知名度をYouTubeやオンラインサロンなど別のビジネスへ接続しようとしている。ゼロ文字正答で大騒動を起こしたことさえ、結果として強烈な自己プロデュースになる。
ここでかなり嫌な気分になる。
だが、この嫌な感じこそ重要だ。
三島は本庄を理解しようとして、本庄の人生を物語にしていた。
読者も一緒にやっていた。
ところが本庄本人は、その美しい物語を必要としていない。
つまり三島は本庄を解いたつもりになっていただけなのだ。
人間はクイズ問題ではない。
背景を全部調べても、正解にはならない。
ここで「君のクイズ」というタイトルが別の意味を持ち始める。
同じ世界に生きていても、人間はそれぞれ違う問題を解いている。
三島には三島のクイズがある。
本庄には本庄のクイズがある。
そして相手のクイズに、自分の正解を押しつけることはできない。
この小説が問い直す「知る」という行為
本書の紹介文には、読後に「知る」が更新されるという趣旨の言葉がある。
これは宣伝文句としてかなり的確だ。
普通、知るとは情報を増やすことだと思う。
しかし『君のクイズ』を通して見えてくる知識はもっと複雑だ。
何かを知る。
それを忘れる。
別の経験と結びつく。
似た言葉を聞いて思い出す。
まだ思い出せていないのに「知っている」と身体が反応する。
その瞬間にボタンを押す。
つまり知識とは、頭の中に静止して保存されているものではない。
必要な瞬間に世界との関係の中から立ち上がってくるものだ。
この意味では、クイズプレイヤーの脳は検索エンジンとはかなり違う。
検索エンジンなら入力された文字列から情報を探す。
人間は、問題文だけではなく、声、場所、経験、文脈、期待、感情まで使って答えを出す。
だから同じ知識を持っていても、押すタイミングが違う。
ここに人間の「知る」の面白さがある。
ただし、弱点もある
作品として非常によくできているが、弱点がないわけではない。
まず本格ミステリーとしてだけ読むと、ゼロ文字正答の解明には、本庄の過去やテレビ番組側の事情など、物語の途中で追加される情報がかなり必要になる。
したがって「冒頭で提示された手掛かりだけを使い、読者が完全に犯人を当てる」というタイプのフェアプレイ型ミステリーとは少し違う。
この作品の謎解きは、「答えを当ててください」というより、三島の推論を追体験させるための構造だ。
もう一つは、三島と本庄の対比がかなり意図的に設計されていることだ。
クイズを愛する三島。
クイズを利用する本庄。
内側から競技を見る三島。
外側から構造を見る本庄。
この二項対立は少々きれいすぎる。
ただし小川哲は最後に本庄を単純な悪役にはしない。
本庄の生き方も一つの答えとして残す。
そこまで含めると、「純粋な三島が正しく、俗物の本庄が間違っている」という道徳劇にはならない。
むしろ読者自身が問われる。
自分ならどちらを選ぶのか。
好きなことそのものを追求するのか。
好きなことを使って別の目的を達成するのか。
そのどちらに、本当に上下があるのか。
簡単には答えが出ない。
『君のクイズ』で一番怖いもの
この作品で一番怖いのは、ゼロ文字正答ではない。
人間が他人を理解するとき、無意識に相手の人生を「物語」にしてしまうことだ。
あの人がこうしたのは、きっと過去にこんな経験があったからだ。
あの発言には、きっとこんな傷が隠れている。
あの人は本当はこういう人なのだ。
私たちは簡単にやる。
三島もやる。
そして読者もやる。
情報を集め、点を線につなぎ、「わかった」と思う。
しかし本人が一言しゃべれば、全部ひっくり返ることがある。
人間についての推理には、最後の正解音が存在しないからだ。
ここまで来ると、『君のクイズ』はクイズについての小説でありながら、同時にクイズでは処理できない世界についての小説でもある。
答えがある世界と、答えがない世界
競技クイズの魅力は、答えがあることだ。
だからボタンを押せる。
間違えばブザーが鳴る。
正しければ正解音が鳴る。
ところが人生には、ほとんど正解音がない。
今日の選択が正しかったのかどうか。
あの人を信じてよかったのか。
あの仕事を辞めるべきだったのか。
もっと努力すべきだったのか。
誰も判定してくれない。
それでも人間は答えを出して生きていく。
だから『君のクイズ』というタイトルは、最後にはかなり優しい言葉にも見えてくる。
世界共通のクイズを解いているわけではない。
誰かの正解を、そのまま自分の答えにする必要もない。
自分が何を知り、何を経験し、何に反応してボタンを押すのか。
それ自体が「君のクイズ」なのだ。
読み始めたときには、「どうやってゼロ文字で正解したんだ?」と思っている。
読み終えるころには、問いそのものが変わっている。
「自分は、何を正解だと思って生きているのだろう?」
優れたミステリーは謎を解いて終わる。
『君のクイズ』は少し違う。
最初のクイズを解いたあと、もっと厄介なクイズを読者の側へ返してくる。
そこに正解音はない。

