【遠距離恋愛、連載】(冬の章)第36話「近づく距離と、消えない面影」
前回の続き
彼女を失い、愛を失い、それでも結婚した10年の軌跡、第36話

景子と連絡が取れなくなってから、3年が過ぎようとしていた。
時間だけは確かに流れている。
仕事を覚え、生活も変わり、周りの景色も少しずつ変わっていった。
それでも――
心のどこかだけが、あの日で止まったままだった。
そんな中で、少しずつ変わり始めたものがある。
優との距離だった。
年が明けてから、同じ業務を任されることが増えた。
自然と話す機会も増え、気づけば隣の席で作業している時間が当たり前になっていた。
昼休み。
「先輩、今日お弁当なんですね」
「たまにはな」
「いいなあ。私、コンビニばっかりです」
他愛もない会話。
でも、その何気ないやり取りが、以前よりもずっと心地よく感じるようになっていた。
残業の日も増えた。
夜遅くまでオフィスに残ると、周りの席は少しずつ空いていく。
最後まで残る顔ぶれも、だいたい決まっていた。
「先輩、今日も残業ですか?」
「まあな。そっちは?」
「私もです」
顔を見合わせて苦笑する。
そのやり取りが、少しだけ嬉しかった。
仕事を終える頃には、窓の外はすっかり夜になっている。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
自然と帰るタイミングも同じになる。
並んで歩く夜道。
最初は偶然だったはずなのに、いつの間にか、それが当たり前になっていた。
ある日の帰り道。
特に予定もない夜だった。
家に帰れば、一人。
テレビをつけて、適当に時間を潰して、気づけばまた朝になる。
そんな毎日だった。
――帰っても、何もすることないな。
ふと、そんなことを思った。
隣を歩く優を見る。
何か言おうとして、やめて。
また言おうとして、少しだけ迷った。
「なあ」
「はい?」
「時間あるか?」
優が首を傾げる。
「近くにカフェあるだろ。少し寄っていかないか」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
誰かを誘うなんて、いつ以来だろう。
優は一瞬目を丸くしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「行きたいです!」
その反応があまりにも素直で、思わず笑ってしまった。
カフェの窓際。
温かいコーヒーの湯気が静かに揺れる。
優は楽しそうに話していた。
仕事のこと。
友達のこと。
家族のこと。
話している時の表情がころころ変わる。
その姿を見ていると、不思議と退屈しなかった。
「先輩って休みの日何してるんですか?」
「特に何もしてないな」
「もったいないですね」
そう言って優は少し考え込む。
そして。
「先輩」
「ん?」
「今度、どこか行きませんか?」
その言葉に、一瞬だけ時間が止まる。
どこかへ行く。
誰かと出かける。
その響きに、忘れたはずの記憶が蘇る。
――亮平と会えるの楽しみ。
――次はどこ行こうか。
景子の声。
景子の笑顔。
景子と歩いた札幌の街並み。
一瞬で頭の中に広がる。
まだ残っていたのか。
そんなふうに思う。
消えたと思っていたのに。
「先輩?」
優の声で我に返る。
目の前には、不安そうにこちらを見る優がいた。
「ああ」
小さく息を吐く。
「いいよ。行こうか」
優の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
その笑顔は真っ直ぐだった。
何も隠していない笑顔だった。
少し沈黙が流れる。
そして優が静かに聞いた。
「先輩って……」
「ん?」
「お付き合いしてる人、いるんですか?」
胸の奥がわずかに痛んだ。
頭に浮かぶのは、景子だった。
もう終わった恋。
もう戻れない人。
それなのに、名前を聞いただけで心が揺れる。
「……今はいないよ」
嘘ではない。
けれど、本当でもない気がした。
優は目を見開き、それから少しだけ安心したように笑った。
「そっか」
そして小さな声で呟く。
「よかった」
その声は思った以上に嬉しそうで。
思わず視線を逸らした。
帰り道。
「今日はありがとうございました」
優が頭を下げる。
「楽しかったです」
その笑顔を見ながら、
「ああ、俺も」
そう答えた。
それは本心だった。
家に帰る。
静かな部屋。
誰もいない空間。
電気をつけても、どこか冷たく感じる。
スマホが震えた。
優からだった。
『今日はありがとうございました😊』
思わず小さく笑う。
その数分後。
もう一通届く。
『次のお出かけ、楽しみにしてます』
短い文章。
でも、その一文だけで十分だった。
優が期待していることが伝わってくる。
ゆっくりとスマホを置く。
そして天井を見上げた。
優といる時間は楽しい。
それは間違いない。
だけど――
目を閉じると浮かぶのは、今でも景子の顔だった。
忘れようとしても消えない。
近づく新しい距離と、消えない昔の面影。
その二つの間で、俺の心はまだ立ち止まったままだった。
第37話に続く
※次回以降、毎週水曜日、土曜日の週2回、連載を投稿予定しています。
引き続きご期待ください。
【マガジンを作りました、過去の話はこちらから】
「遠距離恋愛、10年の軌跡、冬の章」
「四季を越えて愛、総集編」
自己紹介文
