【遠距離恋愛、連載】第29話「日常に残った君─会えない時間と小さな繋がり」
前回の続き
彼女を失い、愛を失い、それでも結婚した10年の軌跡、第29話

景子が北海道へ帰ってからも、日常は何ひとつ変わらなかった。
朝、目を覚まして。
仕事へ向かって。
帰宅して、眠る。
それだけの、いつも通りの毎日。
――なのに。
部屋の中には、確かに景子の気配だけが残っていた。
キッチンの棚に置かれた、ひとつのマグカップ。
横浜で一緒に買ったものだった。
中華街を歩きながら、どれにするか迷って、店先で笑い合った時間まで思い出せる。
「これ、かわいいね」
景子がそう言って笑った顔が、まだ消えない。
洗ってあるのに、片付ける気になれなかった。
ただそこにあるだけで、あの時間が終わっていない気がした。
――ただのマグカップなのに。
触れるたび、距離を思い知らされる。
でも。
完全に離れたわけじゃなかった。
メールは、毎日続いていた。
夜。
仕事を終えて帰宅し、スーツを脱いで、一息ついた頃。
自然と携帯を開いている自分がいる。
――[中華街のお土産、職場の人に評判よかったよ]
そんな、たった一行の報告。
それだけなのに、思わず口元が緩む。
――[やっぱりセンスよかったんだな]
返しながら、少しだけ誇らしくなる。
会えていなくても。
こうして今日を共有できるだけで、救われる夜があった。
だけど、その一方で。
どうしても送れない言葉がある。
「会いたい」
打ち込んでは、消す。
また打って、消す。
(……今は、違う気がする)
景子は今、試験に向かっている。
自分の未来のために、必死に頑張っている。
だからこそ。
その時間を、自分の寂しさで乱したくなかった。
代わりに送るのは、遠回しな言葉ばかりだった。
――[勉強、順調?]
返信はすぐに返ってくる。
――[頑張ってるよ]
短い一文。
でも、その奥にある不安も、焦りも、覚悟も。
なぜか少しだけ伝わる気がした。
「そっか……」
小さく呟き、スマホを伏せる。
応援したい。
でも、会いたい。
その気持ちは、綺麗に分けられるほど簡単じゃなかった。
理恵の時は、こうじゃなかった。
連絡は少しずつ減っていって。
気づけば、何を話していいのかも分からなくなっていた。
でも景子とは違う。
短くても、毎日ちゃんと繋がっている。
それだけで、大丈夫だと思えた。
――いや。
そう思っていたかったのかもしれない。
コーヒーを淹れる。
本当は、景子が使っていた方のマグカップを使いたかった。
でも、それはまだできなかった。
触れてしまったら。
会いたい気持ちまで、溢れてしまいそうだったから。
だから今日も、少し離れた場所に置いたままにする。
近くにあるのに、触れられない。
その距離が、今の俺たちみたいだった。
その時、スマホが小さく震えた。
――[今日、仕事帰りにちょっと頑張った]
たったそれだけのメッセージ。
なのに、胸が少し熱くなる。
――[お、いいじゃん。順調そうだな]
そう返したあと、静かな部屋を見渡した。
会えない時間は、寂しい。
でも。
この距離をちゃんと越えられたなら。
きっと俺たちは、もっと強くなれる。
そんなことを、少しだけ信じたくなっていた。
東京の夜は静かだった。
けれどその静けさの中には、確かに景子がいた。
第30話に続く
※次回以降、毎週水曜日、土曜日の週2回、連載を投稿予定しています。
引き続きご期待ください。
【マガジンを作りました、過去の話はこちらから】
「遠距離恋愛、10年の軌跡、秋の章」
「四季を越えて愛、総集編」
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