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【令和方丈記】私は真言宗ではなく、空海に惹かれる。——「空海と真言の名宝」観覧記

私には、信仰心がない。
正確にいえば、信仰というものに関心がないわけではない。
むしろ、その逆である。
人はなぜ祈るのか。
人はなぜ、目に見えぬものを信じることができるのか。
そして、なぜ人間は、自己の生涯をひとつの信仰に委ねることができるのか。

私は昔から、そのことに強い関心を抱いてきた。
しかし、いかに考えても、私は信仰する側へ行くことができない。
信仰を見つめることはできる。
信仰に生きた人間に感動することもできる。
寺院に佇み、仏像を仰ぎ、経典を読み、宗教思想について考えることもできる。
それでも私は、最後の一線を越えることができないのである。

[内村鑑三に惹かれて]
学生時代、日本史を学ぶ中で、内村鑑三(1861―1930)という人物に出会った。
その生涯に惹かれた私は、プロテスタントを知ろうと教会へ通い、聖書を読んだ。
しかし、やがて気づいた。
私が惹かれていたのは、キリスト教そのものではなかった。
内村鑑三だったのである。
国家と信仰の狭間に立ち、孤独を恐れず、自らの良心に従って生きようとした、一人の人間の精神であった。
私はキリストを信仰することはできなかった。
しかし、キリストを信じ抜いた内村鑑三という人間には惹かれた。
それと同じことが、仏教にも起きている。
私は自らを「半俗禅道主義者」と称している。
世俗に暮らし、酒も飲み、旨いものを食べ、仕事をし、金銭にも拘泥し、人間社会の煩瑣から逃れることもできない。
出家するつもりなど毛頭ない。
その一方で、執着を離れたいと思う。
物を減らし、人間関係を減らし、欲望を減らし、最後には自分自身への執着すら減らしてゆきたいと思う。
だから私は禅宗という宗派よりも、禅という思想に惹かれる。
そして道元(1200―1253)という人間に惹かれる。
同じように、私は真言宗を信仰しているわけではない。
密教そのものに、格別の帰依があるわけでもない。
それでも、
空海(774―835)には、どうしようもなく惹かれるのである。

内村鑑三(1861―1930)

[真言宗ではなく、空海なのだ]
空海の生涯を眺める時、まず驚かされるのは、その途方もない行動力である。
讃岐国に生まれ、中央官人となるべき教育を受けながら、その既定路線から離脱する。
山林に入り、仏道を求め、やがて遣唐使船に乗る。
海を渡り、唐へ行く。
長安に至り、密教を学び、膨大な経典・法具・図像を携えて帰国する。
しかも、それだけではない。
思想家であり、宗教家であり、教育者であり、文筆家であり、書家でもあった。
そして帰国後、日本という国土の上に、自らが唐で会得した思想を根づかせてゆく。
高野山。
東寺。
綜藝種智院。
さらに宮中で営まれる後七日御修法。
その影響は一宗派の開祖という言葉だけでは到底収まりきらない。
私には、空海という人物が、ひとつの巨大な知的運動そのものに思えることがある。
宗教者である以前に、猛烈な知識欲を抱いた知識人であり、異文化を吸収し、それを日本語と日本文化へ翻訳した編集者であり、さらには思想を建築、彫刻、絵画、書、儀礼へと展開した、稀有な総合芸術家でもあったのではないか。
だから私は、真言宗ではなく空海なのである。

空海(774―835)

[信仰なき者に、仏像は見えるのか]
東京国立博物館平成館で開催されている、弘法大師生誕1250年記念特別展「空海と真言の名宝」を訪れた。
私は会場へ向かいながら、ひとつの疑念を抱いていた。
信仰を持たぬ者に、仏教美術を見る資格があるのだろうか。
仏像を、美しい、美しくないという美術的尺度だけで眺めることは、本来の姿から何か決定的なものを取り落としてはいないだろうか。
亀井勝一郎(1907―1966)の『大和古寺風物誌』を読むと、古寺や仏像とは、単なる美術鑑賞の対象ではないことを思い知らされる。
仏像は本来、美術館の白い壁の前に置かれるために作られたものではない。
暗い堂宇の中で、燈明の揺らめきを浴び、香煙に燻され、幾世代もの人間から祈りを捧げられるために存在した。
その前では、人が生まれ、人が病み、人が愛し、人が死んだ。
豊作を祈り、病の平癒を祈り、戦勝を祈り、死者の冥福を祈った。
仏像には、人間の願望と恐怖と悲哀が、目には見えぬ地層となって堆積している。
そう考えれば、信仰なき私の眼は、仏像の半分しか見ていないのかもしれない。
いや、半分どころではない。
ほとんど何も見えていないのかもしれない。

亀井勝一郎(1907―1966)

[私が密教美術を苦手とする理由]
そもそも私は、密教美術を得意としていない。
曼荼羅。
多臂の仏。
忿怒の形相。
金剛杵。
火焔。
宝冠。
瓔珞。
極彩色。
無数の仏たちが充満する宇宙。
私の美意識は、むしろその反対側にある。
何もない空間。
一輪の花。
一幅の墨蹟。
枯山水。
削ぎ落とされた茶室。
余白。
静寂。
無。
だから禅に惹かれる私にとって、密教の造形世界は、ときに装飾過剰に見える。
もっと削れないものか、とさえ思ってしまう。
だが、今回の展示を見ながら、私はその考えが少し浅かったことに気づいた。
密教における過剰とは、装飾ではないのではないか。
それは、言葉では表現できないものを、なんとか可視化しようとした結果としての過剰なのではないか。
目に見えない宇宙を、見えるものにする。
形のない思想に、形を与える。
理解し難い教理を、色彩と形象と身体によって感得させる。
ならば曼荼羅も、仏像も、法具も、壮麗な儀礼も、単なる荘厳ではない。
それ自体が思想なのである。

[一人の人間が、1,200年後に残したもの]
そして私は、会場を歩きながら、次第に空海その人よりも、ある事実に圧倒されるようになった。
空海が死んでから、およそ1,200年が過ぎている。
にもかかわらず、その一人の人間が日本へ持ち帰った思想を起点として、これほど膨大な造形物が生まれ続けたのである。
寺院が建てられた。
仏像が彫られた。
曼荼羅が描かれた。
経典が写された。
法具が鋳造された。
儀礼が整えられた。
書が書かれた。
そして人々は、それらを焼失から守り、戦乱から守り、廃仏毀釈から守り、震災から守り、今日まで伝えてきた。
人間一人の寿命など、せいぜい100年である。
だが、一人の人間が生み出した思想は、その肉体を遥かに越えて生き続けることがある。
今回の展覧会には、真言宗十八本山と関係寺院から、国宝十五件、重要文化財六十件を含む八十八件もの寺宝が集められている。
さらに、普段は寺院の扉や帳の奥に秘され、容易には拝することのできない秘仏までが、一堂に姿を現している。
これは単なる「名品展」ではない。
私には、空海という一人の人間が、日本文化の内部に起こした巨大な余震を観る展覧会のように思えた。

[天を射る仏]
会場で撮影を許されていた仏像のひとつが、山梨・放光寺に伝わる重要文化財《愛染明王坐像》である。
平安時代12世紀。
一面三目六臂。
そして何より異様なのは、弓と矢である。
顔の前に弓を構え、矢を天へ放たんとする。
「天弓愛染明王」と呼ばれる所以である。
この姿を立体として表現した中世以前の作例は極めて少ないという。
正面に立つ。
奇怪である。
だが、目が離れない。
腕が六本ある。
額にも眼がある。
弓が顔を横切っている。
人体として見れば、完全に異形である。
ところが不思議なことに、しばらく見ていると、その異形が異形ではなくなってくる。
これは人間を写したものではない。
人間の身体では表現できない力を、人間の身体を増殖させることによって表そうとしているのだ。
二本の腕では足りない。
二つの眼では足りない。
一つの顔だけでは、宇宙を表現できない。
密教美術の「過剰」とは、そこから生まれたのではないか。
私は、先ほどまで抱いていた装飾過剰という印象を、少し恥じた。

愛染明王坐像

[五体の仏の前で]
そして国宝《五智如来坐像》
京都・安祥寺に伝わる、平安時代九世紀の仏像である。
中央の大日如来を中心として、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五軀が一堂に坐す。
一体の仏を見るのとは違う。
五体が並ぶことで、そこにひとつの宇宙が生まれる。
大日如来とは、密教において宇宙そのものを仏格化した存在である。
したがって、その周囲に四仏が坐すこの構成は、単なる群像ではない。
智慧を空間として表現したものなのである。
私は信仰者ではない。
だから、この五体を前に合掌することもなかった。
しかし、長い時間、立ち止まった。
平安時代9世紀。
1,000年以上前である。
その途方もない時間を想像した。
この木を彫った仏師がいた。
鑿を握った手があった。
木屑が床へ落ちた。
像が完成した時、それを初めて仰ぎ見た人々がいた。
以来、数え切れぬ人間がこの仏たちの前に立ち、祈り、そして死んでいった。
仏だけが残った。
いや、正確には仏像もまた永遠ではない。
木は朽ちる。
彩色は剥落する。
寺は焼ける。
地震は倒す。
それでも、人は修理し、守り、次代へ渡してきた。
そこにあるのは、仏の永遠ではない。
永遠を願った人間たちの連鎖なのではないか。
そう思った。

五智如来坐像

[書をする者として、空海を見る]
そして私にとって、もうひとつ避けて通ることのできないものがある。
書である。
空海は、嵯峨天皇(786ー842)、橘逸勢(782ー844)とともに「三筆」と称される。
私は日々、筆を持つ。
無論、書家を名乗るような者ではない。
しかし、古人の墨蹟を前にすると、時として仏像以上に身体が反応する。
書は不思議な芸術である。
絵画とは違う。
彫刻とも違う。
そこには、書いた人間の身体運動がそのまま残る。
筆を置いた。
引いた。
止めた。
跳ねた。
息を吸った。
一瞬迷った。
そして次の字へ移った。
1,000年以上前の人間の身体運動が、墨の痕跡として眼前に残っている。
書を見るとは、文字を読むことだけではない。
死者の身体を見ることなのである。
空海の書を前にする時、私は宗祖としての弘法大師を見ているのではない。
一人の人間が筆を握り、紙へ向かった、その時間を見る。
そこには伝説も教義も必要ない。
一本の線がある。
その線だけで、人間は1,000年を越えることができる。
書を嗜む者にとって、これほど恐ろしく、これほど興奮させられる事実はない。

嵯峨天皇(786ー842)
橘逸勢(782ー844)

[弘法大師という巨大な影]
空海は、835年(承和2年)に高野山で没した。
62年ほどの生涯である。
人間の一生として考えれば、決して長くはない。
しかし、その六十余年が残した影は、あまりにも長い。
四国を歩けば空海がいる。
高野山へ行けば空海がいる。
東寺へ行けば空海がいる。
善通寺にも、仁和寺にも、醍醐寺にも、石山寺にも、その影がある。
全国各地に弘法大師伝説が残り、「弘法水」が湧き、「弘法井戸」があり、「弘法の杖」があり、空海が開いたと伝えられる寺がある。
史実か伝説かという問題ではない。
むしろ、一人の歴史的人物の名が、これほど深く民衆の記憶へ浸透したこと自体が驚異なのである。
空海という人間は、いつしか歴史上の人物という輪郭を越え、日本人の精神風土の一部になった。
その憧憬。
その信仰。
その祈念。
それらが、絵画となった。
彫刻となった。
曼荼羅となった。
書となった。
寺院となった。
祭祀となった。
そして、それらがまた次の世代の信仰を生んだ。
文化とは、こうして増殖するものなのだろう。

[私は、やはり信仰者にはなれない]
展覧会を見終えても、私は真言宗を信仰したいとは思わなかった。
おそらく、これからも思わないだろう。
密教の壮麗な世界より、私はやはり禅寺の何もない方丈を好む。
金色に輝く荘厳より、墨一色の円相に惹かれる。
無数の仏が充満する曼荼羅より、何も描かれていない余白を美しいと思う。
それでよいのだと思う。
信仰を持たない人間が、無理に信じる必要などない。
しかし、信じることができない者にも、信じた人々が残したものを見ることはできる。
そして、そこに宿る人間の切実さを想像することはできる。

1,000年前の人間も病んだ。
老いた。
愛する者を失った。
死を恐れた。
明日の暮らしを案じた。
その不安は、令和を生きる私たちと、それほど違わなかったはずである。
彼らは祈った。
私は祈らない。
けれども、その祈りの痕跡の前では立ち止まる。
それでよい。

[空海は、まだ死んでいない]
東京国立博物館を出た。
上野の夏の光は、容赦なく地上へ降り注いでいた。
平成館の静謐な暗がりから外へ出ると、蝉の声も、人々の話し声も、照り返す舗道も、俄かに現世へ引き戻されたように鮮明になった。
空海が生きた平安時代から、1,200年近い歳月が流れている。
王朝は滅びた。
武士の世も終わった。
明治という国家も過ぎ去った。
戦争があり、敗戦があり、昭和が終わり、平成が終わり、いま令和を生きている。
それでも、空海の名は残っている。
いや、名だけではない。
彼が持ち帰った思想から生まれた仏像がある。
絵画がある。
書がある。
寺がある。
儀式がある。
そして今日も、その前に立つ人間がいる。
その意味において、
空海は、まだ死んでいない。
人間は死ぬ。
肉体は消える。
名声も、多くは忘却される。
しかし稀に、一人の人間が残した思想が、別の人間の身体を借りながら何百年、何千年と生き続けることがある。
空海とは、その稀有な例なのだろう。
私は真言宗を信仰してはいない。
これからも、信仰することはないかもしれない。
それでも空海には惹かれる。
内村鑑三に惹かれたように。
道元に惹かれるように。
教義ではない。
宗派でもない。
一人の人間が、いかに考え、いかに生き、そして己の死後に何を残したのか。
私が知りたいのは、いつもそのことである。
そして上野の夏空の下を歩きながら、ふと思った。
人は何を信じたかによってのみ、その生涯を測られるのではない。
何を問い続けたかによっても、その人間は形づくられる。

ならば私は、信仰を持たぬまま、これからも寺へ行けばよい。
仏像の前に立てばよい。
空海を読めばよい。
道元を読めばよい。
そして、書を記し続ければよい。
信じることのできぬ者には、問い続けるという道が残されている。
それもまた、ひとつの求道なのかもしれない。

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