作家の想像力
我々が小説など文学作品を読んで、
頭の中に映像が流れている気がするな、と
思ったとき、
まだ映画が存在していなかった時代、
たとえば夏目漱石は
何を想像力の起点にしていたのだろう。
まず「漱石」というペンネーム(号)を
「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という
故事成語から採ってるくらいなので
漢籍が起点なのは間違いない。
さらには正岡子規との往復書簡で
俳句をめっちゃ作ってる(一冊の俳句集になるくらい)。
これもまず間違いない。
そして小説『三四郎』で
「彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである」
とまで書かれた三代目柳家小さん。
小さんについては、
続けてこんなことも書いている。
「圓遊の演ずる人物から圓遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ」
漱石は、
小さんの演じる幇間(たいこもち)から
小さん成分を取り除いても
立派に人物が残ると言っている。
そこまで言うくらいだから、
漱石は映像起点ではなく
「語り物」を想像力の起爆剤にしていた。
漱石作品の映像化って
あまり良いのがないかもしれない。
私が知らないだけかもしれないが。
それは、
漱石作品が映像と親和性が低いからだと思う。
そう思って、
小説が映像化された作家を数えてみる。
まず松本清張。
『砂の器』なんて何度映像化されたか分からないし、
『点と線』『ゼロの焦点』、
『疑惑』…の岩下志麻と桃井かおりは凄かった。
松本清張は間違いなく、
映像作家たちが扱いやすい作品を作った人だ。
ということは、
その想像力も映像起点だったに違いない。
文学作品の起点が映像であるとき、
我々読者もまた、
作者が用意した内なる映像を見ているはずだ。
映像は、時間でどんどん流れてゆく。
もちろんきれいな女優さんやら、
最新の映像技術などで
はっと心を奪われることもある。
しかし文学作品の場合、
単に映像が流れるだけでは何も残らない。
再生をストップさせるボタンを
作者がどこに配置するかで
作品の価値が決まるような気がする。
松本清張の作品が今もなお読まれるのは、
このストップボタンの配置が
巧妙だからなんじゃないか。
つづいて遠藤周作。
最近になってマーティン・スコセッシが
ようやく映像化した『沈黙』の作者。
これは、
日本の映像作家では無理だったんだと思う。
挑戦した人がいないとは思わない。
ただ深い信仰が想像力の起点になっている以上、
その思いを共有できる人でなければ無理。
たまたまスコセッシにそれができたというだけ。
つまり遠藤周作は映像起点ではなかった。
このまま数えてゆくとキリがなさそうなので、
最後にこの人、向田邦子。
どういうことだろう、
あれだけテレビドラマの脚本を書き続けた人なのに、
実は脚本だけ読んでも映像は浮かんでこない。
映像の部分は
演出家に丸投げしてたんじゃないかと思う。
演出家が自分の脚本をどう料理するか、
楽しみに待ってるような人だったんじゃないか。
向田邦子もまた、
映像起点の作家ではなさそうだ。
…
とりとめもなく書いてますが、
私はどうやら、
想像力が映像起点でない作家の方が好きみたい。
さて、ここまで書いたら聞かないわけにはいきません。
皆様は、どちら?
