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而今という主体

無限参照の中で連続するものへ


前稿「生成という邂逅」は、一つの問いを手渡した。生成プロセスとしての記憶を受け入れるとき、そのプロセスを経験するのは誰か。

しかし本稿はその問いに直接答えようとはしない。答えを持つことが、この問いの性質と矛盾するからだ。代わりに、問いの輪郭をより精密に描くことを試みる。輪郭が精密になるほど、答えの場所が見えてくる。そして場所が見えることは、答えを持つこととは異なるが、それ以上に価値があるかもしれない。

出発点は、前稿の対話から生まれた一つの観察だ。過去の記憶が、現在の主体の想起によって生成され、それが主体を変え、さらに少し遅れてくる想起がさらに主体を変えていくという無限参照が、現在において起き続けている。この観察は、主体の問いを新しい角度から照らし出す。主体は変容し続けている。しかしその変容を経験している何かは、連続している。その連続するものとは何か。


一 変容する主体と連続する経験


まず問いを正確に立てる必要がある。

想起が主体を変容させるという観察は、前稿の螺旋の議論から引き継がれたものだ。パートナーの怒りの記憶が、共に生きた時間の累積によって悲しみの記憶として再生成されるとき、変容したのは記憶だけではない。記憶を想起する主体もまた、変容している。同じ主体が異なる記憶を持つのではなく、異なる主体が異なる記憶を生成する。

しかしここで、一つの逆説が生まれる。

もし主体が想起のたびに変容するなら、「変容した」と気づく主体はどこにいるのか。変容を認識するためには、変容の前後を比較できる何かが必要だ。その何かが完全に変容してしまうなら、変容は経験されない。ただ起きるだけだ。しかし私たちは、自分が変わったことを、ときに鮮明に経験する。「以前の私とは違う」という感覚は、変容した主体と変容を経験する何かの、奇妙な共存を示している。

この逆説は新しいものではない。ベルクソン、道元、そして現代の認知科学は、それぞれの方法でこの逆説に触れてきた。


二 三者が触れた逆説


ベルクソンはこの逆説を、「表層の自己」と「深層の自己」の区別として論じた。社会的な習慣や言語によって固定化された表層の自己は変容する。しかし持続する流れそのものとしての深層の自己は、その変容を生きている。重要なのは、深層の自己が変容しないということではない。深層の自己こそが変容の担い手だ。しかしそれは変容に先立って存在する固定された実体としてではなく、変容そのものとして存在する。

ベルクソンが言おうとしたのは、おそらくこういうことだ。主体は変容の外に立ってそれを観察するのではない。主体は変容の中を生きている。しかしその「生きている」ことの連続性が、変容を経験として成立させる。連続性は変容に抵抗するものではなく、変容を可能にするものだ。

道元はこの逆説を、より根源的な場所から扱った。「正法眼蔵」における「自己」の論述は、自己を固定した実体として捉えることへの根本的な疑義から始まる。「自己をならうというは、自己をわするるなり」という言葉は、自己を対象として把握しようとする姿勢そのものが、自己の実態から遠ざかることを示す。しかし道元は自己の消滅を説いているのではない。「万法に証せられる」こと、すなわちすべての存在に証されることによって現成する自己の在り方を指している。

これは変容する主体と連続する経験の逆説に対して、独特の答え方をしている。主体は変容するのでも連続するのでもなく、現成する。各瞬間において新たに現成する自己は、前の瞬間の自己と同一でも別物でもない。現成という出来事そのものが、主体と経験の区別以前の場所にある。

現代の認知科学は、この逆説を「自己の連続性」という問題として扱ってきた。神経科学者アントニオ・ダマシオは、「コア自己」と「自伝的自己」の区別を提唱した。コア自己は各瞬間に再生成される原初的な経験の感覚であり、自伝的自己は記憶によって構成される物語的な連続性だ。変容するのは自伝的自己であり、コア自己はその変容の場として機能する。しかしダマシオ自身が認めるように、コア自己が「何であるか」という問いは、神経科学の記述の外に出てしまう。

三者はそれぞれ異なる語彙で、同じ逆説に触れている。変容と連続は矛盾しない。変容こそが連続の様式だ。しかしその連続とは何か、という問いは、いずれの語彙においても、記述の限界として残る。


三 無限参照という手がかり


ここで、前稿の対話から生まれた観察に戻る。

想起が主体を変え、変容した主体が次の想起を生み、その想起がさらに主体を変えていく。この連鎖は閉じない。そして「少し遅れてくる想起」という表現が示すように、この連鎖には時間的なずれがある。想起が起きてから、その想起による主体の変容が次の想起に反映されるまでの、わずかな間隔。

この時間的なずれは、単なる観察以上のものを含んでいる。

もし想起と主体の変容が完全に同時であれば、無限参照は起きない。ただ変容が起きるだけだ。しかしずれがあるからこそ、変容した主体が次の想起において「自分が変わったこと」を感じ取ることができる。ずれが、経験を成立させる。

これはベルクソンの持続における「遅れ」の概念と深く共鳴する。ベルクソンにとって記憶とは、過去が現在に追いついてくるプロセスだ。知覚は瞬間的だが、記憶は遅れてやってくる。その遅れの中に、意識の幅がある。心理学者ウィリアム・ジェームズが「現在の幅(specious present)」と呼んだものは、この遅れが作り出す意識の厚みだ。

道元の「経歴」もまた、この遅れを含んでいる。時を経歴するとは、時が自己を通過することではなく、自己が時の中を歩むことだ。歩むには時間がかかる。その歩みの遅れの中に、経験が宿る。瞬間的な現成は、それ以前のすべての経歴を畳み込んでいる。畳み込みには、時間が必要だ。

無限参照における「少し遅れてくる想起」は、したがって偶発的な現象ではない。それは経験が経験として成立するための、構造的な条件だ。遅れがなければ、変容は経験されない。遅れがあるからこそ、変容する主体と変容を経験する何かが、同時に存在できる。


四 連続するものの正体


では、遅れの中で連続するものとは何か。

一つの答えは「物語」だ。自伝的記憶として構成される人生の物語が、変容する主体に連続性を与えるという見方は、心理学において広く支持されている。しかしこの答えは問いを先送りするだけだ。物語を語るのは誰か。物語は変容するが、物語を語り続ける何かは変容しないのか。

より深い答えは、連続するものが「実体」ではなく「プロセス」であるという方向に見えてくる。

ベルクソンの深層の自己は、固定された核ではなく、持続するプロセスとして存在する。それは川の流れに似ている。川は常に変容する水から成るが、流れることを止めない。流れそのものが川だ。主体もまた、変容を止めない流れとして存在する。連続するのは、実体ではなく、流れの様式だ。

道元の現成という概念は、さらに踏み込む。現成する自己は、流れの比喩さえも超える。流れには方向があり、持続がある。しかし現成は、各瞬間において完全だ。過去の経歴を畳み込みながら、しかし過去に縛られず、現在において全体として現れる。連続するものは、流れではなく、現成という出来事の様式そのものだ。

現代の認知科学は、この問いに対して「予測符号化(predictive coding)」という概念から示唆を与える。脳は常に次の瞬間を予測し、予測と現実のずれを修正し続けるシステムとして機能する。この予測のプロセスが連続することが、自己の連続性を生み出す。連続するのは特定の状態ではなく、予測し続けるという機能の様式だ。

三者は異なる語彙で、同じ方向を指している。連続するものは実体ではなく、様式だ。変容し続けながら、変容し続けるという様式において連続する何か。それが、経験する主体の候補として浮かび上がる。


五 手放すことと経験すること


しかしここで、前稿が論じた「手放すこと」の問題が、新たな意味を持って返ってくる。

三者はいずれも、動的な生成プロセスを「感じる」ための条件として、分析的・目的的な意識を手放すことを挙げていた。ベルクソンは分析を止めたとき、道元は悟りを求めることを手放したとき、フロー研究は自意識が薄れたときと記述した。

この「手放すこと」は、経験する主体の問いと深く関わっている。

分析的な意識が働いているとき、私たちは経験を対象として捉えようとする。経験する主体と経験される対象が分離する。この分離の中では、変容する主体と変容を経験する何かの逆説は解消されない。二つの別々のものとして固定されてしまう。

しかし手放すとき、その分離が緩む。ベルクソンがメロディーを聴く経験として描いたものは、聴く主体と聴かれる音楽の分離が消える瞬間だ。流れが流れを聴く。道元の只管打坐において起きることも、坐る自己と坐禅の分離が消える瞬間として記述される。坐ることが坐ることを生きる。

この「分離の消滅」は、主体の消滅ではない。むしろ逆だ。分離が消えるとき、経験はより濃密になる。主体は希薄になるのではなく、経験と不可分になる。経験する主体とは、経験の外に立つ観察者ではなく、経験そのものとして現成するものだ——という方向が、ここから見えてくる。


六 而今という主体


前稿のタイトルに「生成という邂逅」という言葉を用いた。本稿のタイトルには「而今という主体」を置いた。

而今とは、道元が用いた「まさに今」という言葉だ。しかしそれは孤立した点としての今ではなく、全時間が凝縮された今だ。過去の経歴を畳み込み、未来への開口を持ち、しかし今この瞬間においてのみ現成する。

経験する主体もまた、而今として存在するのではないか。

変容する主体と変容を経験する何かの逆説は、解消されない。しかしその逆説は、二つの別々のものの矛盾ではなく、而今という現成の二つの側面として理解できる。変容するということと、変容を経験するということは、而今という出来事の中で不可分だ。主体は変容の外に立つのでも、変容に飲み込まれるのでもなく、変容として現成する。

無限参照における「少し遅れてくる想起」が示すものも、この観点から読み直せる。遅れは、而今が自己を経歴する時間だ。各瞬間の而今は、直前の而今を畳み込みながら現成する。その畳み込みのプロセスが、連続性を生む。連続するのは実体ではなく、畳み込み続けるという而今の様式だ。

これは答えではない。而今という概念を持ち出すことで、問いが消えるわけではない。しかし問いの形が変わる。「経験する主体とは何か」という問いは、「而今はいかにして自己を経歴するか」という問いへと変換される。この変換は前進だ。なぜなら後者の問いは、ベルクソンの持続論、道元の修行論、そして現代の予測符号化理論が、それぞれの語彙で実際に論じてきた問いだからだ。


七 残された場所


本稿を通じて、経験する主体の輪郭が少し明確になった。

主体は変容と連続の逆説の中にある。変容し続けるという様式において連続する。分離を手放すとき、経験と不可分になる。而今として現成し、各瞬間に全体として現れながら、直前の自己を畳み込み続ける。

しかしこの輪郭は、まだ輪郭に過ぎない。輪郭の内側には、問いが残っている。

而今として現成する主体は、なぜ「私」なのか。無限参照の連鎖が起き続けるとき、その連鎖を「私の経験」として感じさせるものは何か。現成という出来事は、なぜ無人称ではなく、一人称として経験されるのか。

この問いは、哲学が「クオリア」と呼び、仏教が「仏性」と呼び、神経科学が「意識のハード問題」と呼んできた場所に触れている。三者の語彙が再び収斂する場所だが、今度はより深い地点で。

本稿はここで止まる。しかし止まることは、問いを手放すことではない。而今において問いは続く。


後記


本稿は「純粋記憶の行方」「螺旋する記憶」「生成という邂逅」に続く第四稿として書かれた。前三稿がベルクソンの純粋記憶論・持続概念、道元禅師の有時、および現代記憶研究の構造的収斂を論じたのに対し、本稿はその収斂の先に残された問い——経験する主体とは何か——に向かった。主要な参照はベルクソン「時間と自由」「物質と記憶」、道元「正法眼蔵」(「自己」「有時」各巻)、アントニオ・ダマシオ「感じる脳」、および予測符号化理論(カール・フリストン他)だが、本稿の論述はそれらの学術的解釈ではなく、思想との自由な対話として提示される。

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