万有引力のあざ笑い「熱力学第零法則」第9話・第1部完結
長い一日だった。
本当に、長かった。
重力は90度傾き、時間は30分単位で巻き戻り、確率はバグった路地裏に迷い込み、エスカレーターは地球の底へ沈み続け、コピー機のスキャン光を追い越して時間が止まり、オフィスは缶コーヒー一本で氷河期を迎え、大形部長の承認印は今頃マントルを通過中だ。
これが全部、同じ人間の身に起きたことだとは、誰も信じないだろう。鈴木自身も、半分信じたくなかった。
夜11時。
アパートの階段を、よろよろと登る。三階建ての二階。305号室。鍵を取り出す手が、微妙に震えている。疲労なのか、今日一日の後遺症なのか、判断がつかない。
ドアを開けて、中に入る。
電気をつける。六畳一間のワンルーム。座椅子とローテーブルと、本棚と、寝るためだけのベッドと、仕事用のノートパソコンと——それだけの部屋だ。今日は特にその狭さが、ありがたかった。世界が狭いということは、異常が起きる余地も少ない。
ネクタイをむしり取った。
乱暴に。ネクタイの細い部分が少し伸びた気がしたが、構わなかった。ジャケットを椅子の背にかけ、シャツのボタンを二つ外す。
コンビニに寄る気力はなかった。帰り道のスーパーで、見切り品の弁当を一つ掴んだ。唐揚げ弁当、半額シール。それと、棚の奥に残っていたカップラーメン。いつ買ったか記憶がないが、賞味期限はまだある——たぶん。
とにかく、シャワーを浴びたかった。
お湯を沸かし、カップラーメンの蓋を少し開けてお湯を注ぐ。3分。その間にシャワーを浴びて戻れば、ちょうどいい。鈴木はそう計算して、バスルームへと消えた。
熱い湯が、肩から背中に落ちる。
目を閉じる。今日の出来事が、まぶたの裏に断片的に浮かんでは消えていく。エスカレーターの壁が沈んでいく映像。コーヒー缶が熱くなっていくあの感触。床の小さな穴の、静かな暗さ。
(あれは全部、ストレスが見せた幻覚だったんじゃないか)
シャンプーの泡を洗い流しながら、鈴木はそう思った。仕事のプレッシャーで、脳が一時的にバグっていたのだ。明日になれば、また普通の、退屈で平和な月曜日が来るはずだ。改札は垂直にそびえていない。エスカレーターは地下へ沈まない。コピー機は光速を産まない。
「よし、食って寝よう」
声に出して言った。呪文のように。
バスタオルを頭にかけたまま、湿気の残る廊下を抜けて、部屋の引き戸を開けた。
硬直した。
座椅子に、男が座っていた。
中世ヨーロッパの肖像画から抜け出てきたような、不自然にモコモコとした白い巻き髪のウィッグ。くすんだ茶色のコート。細い指。切れ長の目。
その男が——割り箸を器用に操りながら、鈴木の唐揚げ弁当を食べていた。
すでに唐揚げが二個、消えていた。
「……」
鈴木は引き戸に手をかけたまま、動けなかった。夢か、幻覚か、それとも不法侵入の変質者か。頭の中で三択が高速回転した。
男はもぐもぐと唐揚げを飲み込み、ゆっくりと鈴木を見た。
その目が、鈴木の思考を止めた。
狂気と、好奇心。その二つが、混ざり合って光っていた。世界を解剖したくて仕方がない人間の目だ。鈴木はその目を、どこかで見た気がした。教科書の中で。
「……万有引力を、知ってるかい?」
男は、ひどく流暢な日本語で言った。低く、楽しげに。まるでずっとこの質問を待っていたように。
鈴木の脳裏に、教科書の肖像画がフラッシュバックした。白い巻き髪。細い顎。リンゴの木の下で何かを閃いた、あの男。
「……にゅ、ニュートン……?」
震える声で、名前を呼んだ。
男——ニュートンは、口元を歪めた。あざ笑う、というより、正解を引き出せた教師のような表情だった。
そしてカップラーメンから、手を離した。
——フワリ。
お湯を吸ってパンパンに膨らんだカップラーメンの容器が、ローテーブルからゆっくりと浮き上がった。重力を、完全に無視して。スープが容器からこぼれ落ちる——ことはなかった。汁も、麺も、謎肉も、すべてが美しい球体を保ったまま、空中でピタリと静止した。
六畳一間の天井付近に、ラーメンの宇宙が出現していた。
「これまでの『おイタ』は」とニュートンは言った。「すべて私が用意した前座さ」
「……前座」
「改札の重力。書類の時間逆行。確率のバグった路地裏。エスカレーター。光速のコピー機。熱力学の逆転。消えた作用反作用」
ニュートンは浮かぶスープの球体を指先でツンと突いた。球体が揺れ、小さな波紋を描いて、また静止した。
「全部、私が仕込んだ。君を試していた」
「……なんのために」
「面白かったから」
鈴木は返す言葉を失った。
面白かったから。三百年以上前に死んだはずの物理学者が、現代のサラリーマンの一日を、娯楽として設計した。30万円の経費精算が宙に浮いているのも、エスカレーターで「有給消化率5%」と絶叫したのも、全部この男の暇つぶしだったのか。
「怒る気力も、もうないです」
鈴木は正直に言った。バスタオルが頭からずり落ちた。拾う気力もなかった。
ニュートンはそれを見て、初めて表情を和らげた。あざ笑う色が消えて、どこか温かみのある顔になった。
「それでいい。怒らなくていい」
「……はあ」
「ただ、君に一つだけ聞きたかった」
ニュートンは立ち上がった。コートの裾がひるがえる。天井ではラーメンの球体が、謎肉が、ゆっくりと自転しながら漂っている。
「私が法則を壊しても、君は毎回、会社に行った。遅刻しなかった。誰かを助けた。経費精算を諦めなかった。なぜだ」
鈴木は少し考えた。
「……行かないと、査定が下がるので」
ニュートンは、今度こそ声を上げて笑った。三百年ぶりに笑ったような、そういう笑い方だった。
笑い声が収まると、男の輪郭が、ゆっくりと薄くなり始めた。
「また会おう、鈴木くん。セカンドシーズンで」
「……セカンドシーズン」
「物理のルールは、まだまだある。私が作ったものだからね」
最後に笑みだけを残して、ニュートンは消えた。
部屋に、静寂が戻った。
天井からカップラーメンが落ちてきた。ローテーブルに直撃し、スープが盛大に飛び散った。
鈴木はそれを見て、五秒間だけ呆然とした。
それから、台所からタオルを取ってきて、黙々と拭き始めた。
弁当は、唐揚げが二個なくなっていた。
明日も、始業は9時だった。
第1部完結
