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VRはアウラを消すのか――複製技術時代のその先で起きること

仮想現実(VR)で再現されたシスティーナ礼拝堂をめぐって、「複製から声は聞こえるのか」という記事を読んだ。

記事では、ミケランジェロや尾形光琳の作品を手がかりに、複製から何を受け取れるのかが語られている。そこには筆者自身の鑑賞体験があり、作品から何を受け取ったのかという感覚がある。

気になったのは、「アウラ」という言葉の扱い方だった。

その記事では、複製やデジタルには本物だけが持つ特別な力が宿らないのではないか、という流れでアウラが語られている。VRシスティーナ礼拝堂ではミケランジェロの声は聞こえなかった。しかし、構造は見えた。アウラがない分、客観的な視点で絵に近づけた、という整理である。

この感覚そのものはわかる。
実物の前に立ったときの圧、場所の重み、時間の蓄積、物質の存在感は、複製から抜け落ちる。VRでどれほど精密に再現しても、本物の礼拝堂に実際に身体を置く体験とは違う。

ただ、「VRにはアウラがない」と言い切ってしまうと、VRという技術が届けているものを少し小さく見積もってしまう。
VRはアウラを完全に再現する技術ではない。けれど、アウラを構成していた条件の一部を、別の形で再媒介しているのではないか、とわたしは考える。

※これは批判記事ではありません。

ベンヤミンは何を問題にしていたのか


ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は、写真や映画のような複製技術が広がったとき、芸術作品のあり方がどう変わるのかを論じた文章である。

そこで重要な言葉として出てくるのが「アウラ」だ。

ベンヤミンが見ていたのは、芸術作品が特定の場所にあり、特定の歴史を背負い、そこへ鑑賞者が身体を運び、一定の距離をもって向き合うという条件である。

作品が「いま、ここ」に一回的に存在していること。
その作品が宗教的、儀礼的、歴史的な文脈と結びついていること。


アウラは、そうした一回性や距離に関わる概念として扱える。

複製技術は、この条件を変えてしまう。
写真印刷によって、作品は本来置かれていた場所から切り離され、遠くまで運ばれ、何度でも見られるようになる。
映画であれば、最初から複製と流通を前提にして作られる。
芸術作品の価値は、「そこにしかないもの」としての一回性だけでなく、「多くの人に見られるもの」としての展示性や流通性によっても組み替えられていく。

ベンヤミンは、この変化を単純な劣化として扱っていたわけではない。
複製技術は、作品の一回性や儀礼的な距離を弱める一方で、芸術の受容条件そのものを変える。
アウラの凋落は、芸術の終わりというより、芸術の社会的な機能が変わる出来事でもある。

そのため、アウラを使うときに、「本物にはアウラがあり、複製にはアウラがない」とだけ整理すると粗くなる。
作品が置かれていた条件のうち、複製技術によって何が失われ、何が可能になったのかを見る必要がある。

そしてVRは、ベンヤミンが主に考えていた写真や映画や印刷とは違う性質を持っている。VRは作品を場所から切り離す複製技術であると同時に、鑑賞者の視点、身体の向き、距離、スケール感を再構成する技術でもある。

だからVRを考えるときには、アウラが「あるか/ないか」の二択よりも、アウラを構成していた条件のうち何が失われ、何が別の形で再媒介されるのかを見たほうがよいのではないか。

アウラを「本物だけの力」に閉じない


この前提に立つと、アウラを「本物に宿る作家の声」や「複製には宿らない特別な気配」と同一視することは、ベンヤミンの議論から少し離れてしまう。

もちろん、アウラという語は日常的には「オーラ」や「気配」のようにも使われる。その意味で、本物の絵画や建築空間の前に立ったときに感じる圧をアウラと呼ぶこと自体は、不自然ではない。

だが、ベンヤミンの議論を引くなら、アウラはもう少し複雑な概念として扱ったほうがよい。

アウラは、作品の物質性、場所性、歴史性、距離、儀礼性、鑑賞者の身体配置が結びついた「経験条件の束」として扱える。

  • 作品が「いま、ここ」に一回的に存在していること。

  • 特定の場所に結びつき、そこへ身体を運び、ある距離を保って向き合うこと。

  • 芸術作品が宗教的・儀礼的な文脈を背負ってきたこと。

そうした条件が重なったところに、アウラ的な経験が生じる。

このように考えると、アウラは単に「作家の声が聞こえるかどうか」の問題には収まらない。複製に作家の気配が宿るのか、宿らないのかという話に寄せてしまうと、アウラ論というより、作家の気配を受け取れるかどうかという話に近づいていく。

むしろ問うべきなのは、複製技術によって、作品をめぐるどの経験条件が失われ、どの条件が保存され、どの条件が別の形で再構成されるのかである。

VRは現地を丸ごと運ばない


まず前提として、VRは現地の体験を丸ごと運べない

システィーナ礼拝堂の天井画を考えるなら、実物の壁面、顔料、経年変化、反射、照明、建築物の圧、音の響き、空気や温湿度、移動の疲労、現地の混雑、そこに至るまでの時間は、VRではどうしても削られる。

光の問題もある。
現実の場所には、緯度経度、季節、時刻、天候、周辺環境によって生じる光の条件がある。
レイトレーシングなどの技術によって一部は近似できるとしても、制作側のデータ取得、レンダリング設計、利用者側の機器性能によって結果は変わる。現地の光そのものが、そのままヘッドマウントディスプレイ(HMD)の中に入るわけではない。

解像度の問題も避けられない。
実物の壁面や絵画には、表面の凹凸、細かな筆致、顔料の質感、視点移動に伴う反射の変化がある。それをデジタル化する時点で、撮影解像度、スキャン精度、テクスチャ、圧縮、色再現、レンダリング方式の制約が入る。
さらに利用者側では、HMDのパネル解像度、レンズ、視野角、輝度、色域、リフレッシュレート、パソコンやスタンドアロン型端末の処理性能に左右される。

つまりVRは、本物の情報をそのまま運ぶ透明な窓ではない。
取得し、変換し、描画し、表示し、人間の知覚に渡すまでの各段階で、情報は削られ、選ばれ、再構成される。
現在のVRは、アウラの完全再現には届いていない。

それでもVRは空間を届ける


ただし、VRはアウラを単に消すだけの複製でもない。

図録やWeb画像では、作品は平面の画像として現れる。
高精細画像なら細部を拡大できるし、筆致や構図を分析するには有効である。
だが、鑑賞者の身体はほとんど関与しない。
画面を見る鑑賞者は、作品の置かれた空間の中にいない。

システィーナ礼拝堂の天井画は、単なる画像として成立しているのではなく、天井に描かれていること、見上げること、身体の向きが変わること、壁面や天井との距離があること、礼拝堂全体のスケールの中で構図が立ち上がることを含めて経験される。
VRは、その空間的・身体的な条件の一部を再構成する。

VRは、オリジナルの物質性や歴史的場所性を運ばない。
一方で、平面複製では落ちやすかった視点、距離、スケール、身体の向き、空間内の構図を再構成できる。

この点で、VRは「アウラなき客観視」とだけ呼ぶには足りないようにわたしは考える。
VRは、作品を礼拝的な距離や歴史的場所性から切り離すことで、構造を見やすくする。
同時に、構造が空間の中でどう立ち上がるのかを、身体的に再媒介する。

アウラが消えたから構造が見える、という整理は半分正しいとわたしも部分的に同意したい。
だが、VRが届けている構造は、単なる平面上の構図ではない。
見上げる身体、空間内の距離、スケール感と結びついた構造である。そこには、アウラを支えていた条件の一部が、技術的に再接続されている。

複製は民主化でありオリジナルの価値を見えるようにする


複製技術は、作品へのアクセスを民主化する。

現地に行けない人、身体的・経済的・地理的にアクセスが難しい人でも、作品の一部に触れられる。
高精細画像は細部を開き、VRは空間的な配置やスケールを開く。
システィーナ礼拝堂のように、場所そのものが遠く、混雑し、鑑賞条件にも制約がある作品では、この民主化の意味は小さくない。

しかし、民主化は本物を不要にすることと同じではない。

複製が進むほど、複製で届くものと届かないものの差分が明確になる。

画像としては見られる。構図もわかる。
VRなら、見上げる角度や空間のスケールもある程度わかる。
そこでなお残るのは、現地の空気、光、音、湿度、建築物の実在感、移動の時間、歴史的な場所に身体を置く感覚である。

かつてオリジナルの価値は、「そこに行かなければ見られない」という情報アクセスの希少性に支えられていた部分がある。
複製技術はその独占性を弱める。
だが、独占性が弱まることで、オリジナルにしか残らない価値が見えやすくなる。

本物の価値は、画像としての希少性だけではなく、不可搬な経験条件の束として見えやすくなる。
VRでかなりの部分が届くようになるほど、それでも届かないものが浮かび上がる。

複製技術はアウラを失わせるだけではない。
アウラを分解し、一部を民主化し、同時にオリジナルにしか残らない差分を可視化するのではないか。

究極の複製体験はありうるか


人間の知覚は、外界をそのまま受け取っているわけではない。

網膜が光を受け取り、神経系が信号に変換し、脳が補完し、予測し、意味づける。人間が経験している現実は、外界そのものの直接的な写しではなく、身体と神経系によって再構成された経験である。

この前提に立つなら、原理的には、十分に高度な技術があれば、主観的にはオリジナルと区別しにくい複製体験が成立する可能性はある。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、温度、湿度、身体負荷、空間音響、光の変化、社会的文脈まで高度に再現できるなら、人間の経験としてはかなり本物に近づくかもしれない。

だが、現在のVRはそこには届いていない。

現在のVRが実現しているのは、究極の複製体験ではない。
アウラを構成していた条件のうち、空間性、視点、距離、スケール、身体の向きといった一部を、身体的・空間的に再媒介している段階である。

さらに、主観的に区別しにくい体験が成立したとしても、体験の等価性とオリジナルの来歴は別の問題として残る。

システィーナ礼拝堂にいる感覚を完全に近く再現できたとしても、それはシスティーナ礼拝堂そのものではない。
実物の壁、歴史的な場所、宗教施設としての制度、保存されてきた時間、そこへ身体を運ぶ行為は、複製体験の外側に残る。

問いは「アウラがあるか」ではない


VRにアウラはあるのか、ないのかという問いだけでは、見落とすものが多い。

VRはオリジナルの物質性、歴史的場所性、現地の空気を運べない。だから、オリジナルのアウラを完全には再現しない。

一方で、VRは視点、距離、スケール、身体の向き、空間内の構図を再媒介する。平面複製では落ちていた身体的・空間的な条件を、別の技術体系の中で再接続する。

だからVRは、アウラを完全に復元する技術ではない。
同時に、アウラを単に消す技術でもない。アウラを構成していた条件を分解し、その一部を再媒介する技術であるとわたしは言いたい。

ベンヤミンのアウラ概念は、写真や映画や印刷が主な複製技術だった時代に書かれた。その概念をVR時代に使うなら、「本物か複製か」という二分法だけでは足りない。問うべきなのは、どの経験条件が失われ、どの経験条件が再構成され、どの経験条件がオリジナルにしか残らないのかである。

VRはアウラを殺すのではなく、アウラを分解する。
失われる条件、再媒介される条件、広く開かれる条件、オリジナルの側に残る条件を切り分ける。その分解によって、本物の価値がどこに宿っていたのかが、かえって見えやすくなる。
技術によって民主化した芸術体験は今、アウラをより緻密に我々に示している。

追補:それでも「声が聞こえる」という感覚は残る


ここまで、アウラを「経験条件の束」として見てきた。
作品の物質性、場所性、歴史性、距離、儀礼性、鑑賞者の身体配置。VRはその一部を失わせ、一部を再媒介する。こう整理すると、複製技術によって何が変わるのかはかなり見えやすくなる。

ただし、この整理だけでは拾いきれないものも残る。

作品の前で「声が聞こえる」「呼ばれる」「何かに圧倒される」と感じる経験は、単なる情報量や空間条件だけでは説明しきれない。

そこには、ルドルフ・オットーが『聖なるもの』でヌミノーゼと呼んだ経験に近いものが含まれている可能性がある。

オットーは、聖なるものの経験を、恐れさせると同時に惹きつける神秘として記述した。英訳の『The Idea of the Holy』は1923年に刊行されており、宗教的経験における非合理的な要素を扱った古典として読まれている。

もちろん、ベンヤミンのアウラとオットーのヌミノーゼは同じ概念ではない。ベンヤミンは複製技術によって芸術作品の一回性や礼拝価値がどう変わるかを論じたのであり、オットーのように宗教的経験そのものを記述したわけではない。

それでも、両者は接している。
アウラが作品の場所性、距離、来歴、儀礼性と関わるなら、それはヌミノーゼ的な経験を生み出す条件とも重なっている。
オットーが見ていたのは、言葉や概念では捉えきれない「まったく他なるもの」に触れる感覚であり、ベンヤミンが見ていたのは、そうした経験を支えていた芸術作品の社会的・歴史的条件の変化だった、と整理できる。

この補助線を置くと、元記事の「声が聞こえる」という表現も少し違って見える。そこにあるのは、単なる比喩や誇張ではなく、作品が通常の鑑賞対象を超えて迫ってくる経験かもしれない。

圧倒されるが、同時に惹きつけられる。
説明しきれないが、確かに何かを受け取ったように感じる。
その感覚は、アウラというよりヌミノーゼに近い。

ただ、この記事の主題は、その体験そのものを判定することではない。
問題にしたいのは、そうした経験がどの条件によって支えられ、複製技術やVRによってどこまで変化するのかである。

「経験条件の束」としてアウラを分解する分析は、ヌミノーゼ的な体験を否定しているわけではない。むしろ、その体験がどのような場所性、物質性、距離、来歴、身体配置によって生じやすくなるのかを見ようとしている。
ただし、条件をどれだけ列挙しても、作品の前で何かに呼ばれたように感じる質そのものは、最後まで分解しきれない。

その意味で、VRが問うているのは、アウラの再媒介だけではない。
聖なるもの、あるいはそれに近い圧倒的な経験は、複製できるのか。
もし複製できるとして、それは条件を再現すれば生じるのか。
それとも、オリジナルの来歴や場所性に結びついたまま、最後まで持ち運べないものとして残るのか。

現在のVRは、この問いに十分答えられる段階にはない。
VRは空間や視点やスケールを再構成できるが、作品の前で「呼ばれる」と感じる経験の全体を保証するわけではない。

だからこそ、VRはアウラを完全に復元する技術ではなく、アウラやヌミノーゼを支えていた条件の一部を可視化する技術として読むことができる。
それゆえにわたしは、あるいはわたしたちはVRに魅力を感じるのだ。

参考資料


Walter Benjamin, The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction

https://web.mit.edu/allanmc/www/benjamin.pdf

Rudolf Otto, The Idea of the Holy

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