「人間は意識だ」と考えると生きるのがしんどくなる
人間は意識なの?現象なの?
先日、Podcast超相対性理論で小倉ヒラクさんをゲストに迎え、「今を生きる伝統とは何か?」というテーマで対談をした。
伝統って言うけど、その正体は何なの?
伝統って何も変わらないことを維持することなの?それとも変わっていいものなの?
…そんな問いを皮切りにして議論を深めていった。
その議論の最中で、ヒラクさんが対談でユニークな問いを投げくれた。
それは「人間は意識なのか、現象なのか」という問いだ。
哲学的に聞こえるが、要するにこの問いはこういうことだ。
僕たちは普段、自分のことを「考え、選び、行動する主体」として捉えている。
中身のある「私」がまずあって、その私が世界と関わっている、という順序だ。
これが「意識」としての人間観である。
そりゃそうだろうと思うだろう。
ところが、もう一つの見方があるのだ。
「私」という存在は形あるのではなく、環境や他者との関わりの中で瞬間ごとに立ち上がっている、という見方だ。
川の渦のようなものだと言ってもいい。
渦は確かにそこにあるが、水分子は次々に入れ替わり、流れの条件が絡み合って維持されている動的な「現象」であって、独立した実体ではない。
人間もそれと同じで、固定した「私」が存在するのではなく、動的な現象の連続が「私」として見えているに過ぎないのではないか。
これが「現象」としての人間観だ。
普通は「人間は意識」だよね
この2つを提示した上で、どっち派なのかと聞かれたらどう答えるだろうか?
おそらくほとんどの人は意識派なのではないかと思う。
仏教の修行をしている人ならさておき、ビジネスという現場にいれば「人間=意識」が前提になって仕組みができているからだ。
目標管理も、人事評価も、契約も、責任追及も、すべて「意志を持った個人」がいることを前提に設計されている。
僕たちはその仕組みの中で日々を生きている以上、人間を意識として見る感覚が骨身に染みついている。
だから、唐突に「人間=現象」と言われても、ピンとこない人が多いのは普通のことだ。
でも、別の人間観があるんですよ、奥さん!
で、その別の人間観の比率を増やしていくと、なんと人生少し楽になれるんですね!
…とまあ、今日はそんなテーマを深めていこうではないか。
現象的に捉えることによる不都合
ちなみに、ヒラクさんが意識派の代表として挙げたのが哲学者のハイデガー、現象派の代表として挙げたのが認知科学者のフランシスコ・ヴァレラだった。
ヴァレラはチリ出身の生物学者で、認知科学と仏教の対話を真剣に推し進めた人物だ。
仏教の「空」や「縁起」の発想を、現代の科学の言葉で言い直した、と理解しておけばいいと思う。
要するに、人間を固定した「能力」や「適性」で裁くのではなく、関わりの中で絶えず立ち上がり続ける動的なものとして見る。
人間を固定的、名詞的に捉えるからしんどくなるのだ。
そうではなく流動的、動詞として捉えればいい。
教育の場面でも、キャリアの場面でも、この視点は人の可能性を大きく開く力を持つ。
だから僕も基本的には、この「現象的人間観」の視点を取り入れた方が人生は楽になると思っている。
…のだが、ここで素直に「めでたしめでたし」とはならない。
誰もがその考え方に違和感が残る。
それは、人間を環境との相互作用から立ち現れる現象だと言い切ってしまうと、責任の所在が曖昧になるということだ。
つまり、悪い行為も「環境のせい」になってしまう可能性がある。
近代の倫理や法は、自由意志を持つ独立した主体に責任を帰すという構造の上に成り立っている。
現象的人間観は、この土台を揺るがしてしまうのだ。
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