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消えた「蹴球」と幻の「ソッカー」。私たちが米国経由の「サッカー」を叫ぶまでの滑稽な歴史【じじネタ】

「フットボール」と呼びたがるファンの裏で忘れ去られた「ソッカー」の敗北。私たちが日常的に使う「サッカー」という言葉の裏には、エリートの虚栄心と戦後の漢字制限、そして米国の文化支配という滑稽な書き換え作業が存在していた事実を紐解きます。


スポーツバーや居酒屋の片隅で、海外サッカーの中継を眺めながら「やはり本場にならってフットボールと呼ぶべきだ」と、したり顔で語る熱心なファンを見かけることがある。彼らの主張は、アメリカ経由の呼称である「サッカー」という言葉に対する、ある種の文化的なコンプレックスに裏打ちされている。本場の空気を知っている俺は、無知な大衆とは違うのだという、ささやかな自己主張である。私はそういう手合いに出くわすと、適当に相槌を打ちながら、彼らのグラスにビールを注ぎ足して機嫌をとることにしている。言葉の起源に執着して発音でマウントを取り合うのは、人間の可愛らしい習性の一つであるからだ。
私たちは普段、外来語のカタカナ表記など、単なる耳の良し悪しや翻訳者の気まぐれ、あるいは大衆の生活の中から自然発生的に選ばれ、定着していくものだと無邪気に信じている。グラウンドを走り回る子供たちから、スタジアムで声を枯らすサポーターに至るまで、誰もが「サッカー」という呼称を自らのものとして口にしている。しかし、日本におけるこのスポーツの呼称がいかにして現在の形に落ち着いたのかという歴史を紐解いてみると、そこには自然発生的な大衆の意志など微塵も介在していないという、極めて身も蓋もない事実が浮かび上がってくるのである。
手元にある「日本におけるスポーツ呼称『サッカー』の受容と表記変遷に関する研究」という資料によれば、日本にフットボールが伝来したのは1873年頃のことであるらしい。英国海軍によって持ち込まれたこの競技は、当初は伝統的な遊戯になぞらえて「蹴鞠」と呼ばれたり、そのまま「フットボール」と呼ばれたりしていた。その後、明治後期から大正期にかけて「蹴球」という訳語が定着し、ラグビーとの混同を避けるために「ア式蹴球」といういかにもお役所仕事的な分類呼称が学術的な場で一般化していく。
ここまでは、外来の文化をどうにかして自国の言語体系に落とし込もうとする、近代日本の健気な翻訳作業の過程として理解できる。だが、大正から昭和初期にかけて、事態は奇妙な方向へねじれ始めるのである。
当時の日本のスポーツ界を牽引していた主要大学のエリート学生たちが、競技の「正統性」を主張するために、独自の呼称を用い始めたのだ。その筆頭が、1927年に「ソッカー部」という名称を採用した慶應義塾大学である。なぜ「サ」ではなく「ソ」なのか。それは、彼らがネイティブの英国人から直接耳にした発音が、日本語の「サ」よりも「ソ」に近いものだったからである。
言語学的に言えば、米国英語の発音記号が「sɑ'kər」であるのに対し、英国英語は「sɔ'kə」となる。スポーツの発祥国である英国から直輸入した正統なフットボールを志向する彼らの自負が、英国発音に極めて忠実な「ソッカー」というカタカナ表記に結実していたのである。要するに、俺たちのやっている高尚なスポーツを、その辺の連中がやっている「蹴球」などという泥臭い名前と一緒にしないでくれという、極めて選民意識に満ちた特権階級の自己満足である。実にお粗末な話だ。
それでも、彼らの「ソッカー」という呼称は、あくまで一部の大学スポーツ界という閉鎖的なコミュニティの中での符丁にとどまっていた。もしも歴史がそのまま平穏に推移していれば、日本全国でこの競技は「ソッカー」と呼ばれ、私たちは週末のソッカー観戦に熱狂していたかもしれない。しかし、現実はそうはならなかった。この競技が、日本全国津々浦々で現在のように「サッカー」と呼ばれるようになるためには、戦後の日本社会に押し寄せた二つの巨大で不条理な外部介入を待たねばならなかったのである。
第一の介入は、1946年の「当用漢字表」の制定に伴う、国家による強権的な言葉の制限である。
敗戦直後の日本において、民主化を急ぐ政府は、複雑な漢字を制限し、平易な表記を推奨するという国語施策を打ち出した。その結果、「蹴」という文字が表外字として扱われ、公の場から排除されてしまったのである。この瞬間、それまで大衆に親しまれていた「蹴球」という言葉は、メディアの紙面から物理的に抹殺されることになった。
第二の介入は、活字メディアがカタカナを必要としたまさにそのタイミングで起きた、GHQ占領下における米国文化の急速な流入である。
漢字を奪われた新聞各紙は代替語として一斉にカタカナ表記を採用せざるを得なくなったが、そこでラジオやテレビ、新聞などのマス・メディアを通じて大衆に定着していったのは、エリート学生たちがこだわった英国発音の「ソッカー」ではなく、圧倒的な影響力を持った米国経由の英語発音「サッカー」の方であった。
つまり、私たちが現在日常的に使用している「サッカー」という呼称は、大衆が好んで選び取ったものではない。敗戦国の言語政策という巨大なブルドーザーが「蹴」という文字を強制的に奪い去り、そこにアメリカの巨大な引力が「サ」という発音を流し込んだ結果として定着した、単なる行政的な妥協と文化支配の産物に過ぎないのである。バカな話である。英国からの直輸入を誇っていた伝統的な呼称が、アメリカのソフトパワーと国内の役所仕事的な漢字制限という外部要因の挟み撃ちにあい、あっけなく駆逐されてしまったのだから。
それにしても、戦後のマスメディアの従順さには呆れるほかない。お上の定めたルールに従い、昨日まで使っていた「蹴球」という言葉をあっさりと捨て去り、強力な保護者たるアメリカの意向を無意識のうちに先読みして、代替品のカタカナを大衆の脳に刷り込んでいく。そこに、言葉という文化の担い手としての抵抗や矜持は一切見当たらない。彼らはただ、ルールという名の透明な檻の中で、波風を立てずに文字を並べる作業をこなしていただけなのである。
これら一連のプロセスは、私たちが戦後長らく演じてきた「独立国」というフィクションの構造と不気味なほどに符合している。私たちは自分自身の言葉で世界を語っているつもりでいながら、その実態は、社会のOSそのものを米国仕様に書き換える作業を粛々と受け入れ、あらかじめ用意されたメニューの中から最も無難な選択肢をタップさせられているだけなのだ。現在に至るまで、慶應義塾大学が「ソッカー部」という名称を頑なに維持し続けているという事実は、なんとも示唆に富んでいる。彼らは、マスメディアが主導した呼称の均質化や、米国文化の言説支配といった外部からの力学に抗い、自らの歴史と正統性を現在に繋ぎ止めるための防衛的実践を行っているのである。
だとすると、私たちが熱狂の渦の中で叫んでいる言葉の数々も、実は誰かの都合で作られた書き割りのようなものなのかもしれない。私たちが日常的に何の疑問も抱かずに口にしている「サッカー」という言葉は、戦後日本がいかにして自らの言語の多様性を削ぎ落としてきたかを示す、見事な敗戦のモニュメントであると言える。
それでも週末になれば、スタジアムには巨大な歓声が響き渡る。言葉の起源がエリートの虚栄心であろうと、役所の都合であろうと、あるいはアメリカという巨大な帝国の影であろうと、目の前を転がるボールの軌道だけは、常に予測不能で美しいからである。私たちはその美しさに目を奪われながら、自分たちがどんなルールの下で踊らされているのかを、永遠に忘却し続けるのだ。

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