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英国人が米国人を笑う「サッカー」という呼称の歴史的忘却と、言葉の純化について【じじネタ】

サッカーとフットボールの呼称論争。実は「サッカー」は英国エリートの造語だったのに、米国の覇権への恐怖と自国のフーリガン問題の隠蔽から、英国自身がその歴史を消去したという、滑稽で恐ろしい言葉の純化のお話。


四年に一度、ワールドカップの季節がやってくると、インターネット上の至る所で必ず勃発するお決まりの論争がある。「アメリカ人はなぜフットボールのことをサッカーと呼ぶのか」という、あの果てしなく不毛な言い争いである。フットボールの母国を自任する英国のファンたちは、ここぞとばかりに「我々が発明した神聖なスポーツを、奇妙な造語で汚すな」と米国人を嘲笑しにかかる。彼らの言い分を素直に受け取るならば、サッカーという言葉は、伝統ある欧州の文化を無神経に書き換える、粗野なアメリカニズムの象徴ということになる。私たちはこうした光景を、国境を越えたスポーツの風物詩として、半ば呆れながら眺めているのである。
しかし、少し歴史のアーカイブをひもとけば、この認識がいかに見当違いなものであるかがすぐに判明する。歴史的な事実として、「サッカー」という言葉は米国の造語などではなく、19世紀後半の英国で誕生した純粋なイギリス英語である。 当時の言語的変遷を整理すると、以下のようになる。
19世紀後半、オックスフォード大学などのエリート層の学生たちが、アソシエーション・ルール(Association Football)の競技を略して「Assoc-er」、さらに「Soccer」と呼ぶ遊び言葉を流行させた。
1885年にはパブリックスクールの校内誌にこの言葉が登場しており、初期の活字記録にも明確に残されている。
20世紀前半から1970年代に至るまで、英国の主要な新聞メディアは「フットボール」と同義の便利な略語として「サッカー」を日常的に多用していた。
要するに、英国人自身が100年近くにわたって自国で愛用してきた言葉を、ある日突然「アメリカの言葉だ」と指差して非難し始めたのである。お粗末な話だ。自分たちが生み出し、喜んで使っていたはずの道具を、海を渡った他人が使い始めた途端に「それは我々の文化に対する冒涜だ」と騒ぎ立てる。かつて1905年に英国のアマチュアチームが米国遠征を行い、このスポーツの普及に貢献した際にも、すでに両国間には言語の交流があったはずである。それにもかかわらず、現在ではすべてが米国側の無知と傲慢の産物であるかのように語り継がれているのだ。
彼らがなぜ自らの言語的歴史を意図的に忘却し、言葉の追放劇を演じなければならなかったのか。その背景には、20世紀後半における二つの厄介な社会的力学が働いている。
一つは、米国に対する強烈な文化的防衛本能である。1970年代以降、米国の北米サッカーリーグがペレなどのスター選手を獲得して商業的な成功を収めると、英国社会は強い衝撃を受けた。音楽や映画などあらゆる文化領域で米国が世界的な覇権を握る中、フットボールは英国人が「自分たちに所有権がある」と自負できる数少ない文化的領域であった。アメリカ人がこのスポーツを「サッカー」と呼んで熱狂している事実が広く認知されると、彼らはそれをアメリカナイズされた言葉として忌避し始めたのである。つまり、彼らは目に見えない文化的な防波堤を築くために、自国の歴史の半分を切り捨てたのである。
さらに深刻なのは、1980年代の英国社会を吹き荒れたフーリガニズムという社会病理との関係である。スタジアムでの暴動や死傷事件が相次ぎ社会問題化すると、サッチャー政権は彼らを徹底的に弾圧した。これに同調した右派メディアは、事件の報道において、純粋なスポーツ面と犯罪を扱う社会面とで巧妙な用語の使い分けを行った。犯罪的な暴徒たちを「Soccer Hooligan」や「Soccer Violence」と呼び、社会の暗部を「サッカー」という単語に結びつけたのである。純粋で美しいスポーツの姿を「フットボール」という言葉の領域に保護し、暴力的で犯罪的な側面をすべて「サッカー」という言葉に押し付けて切り離すという、極めて意識的な意味の浄化作業が行われたと推測できる。バカな話である。自分たちの社会が抱える構造的な欠陥を直視する代わりに、言葉一つにすべての穢れを背負わせて追放したのである。
百歩譲って、そうした言葉の操作によって社会の秩序が一時的に保たれるのであれば、為政者にとってそれは有効な手段なのかもしれない。しかし、現実には暴力の根源が言葉の変更だけで消滅するわけではない。1990年代以降、プレミアリーグという巨大な商業システムが完成すると、英国の主要新聞はスタイルガイドを改訂し、「サッカー」をローカルな外来語として正式に排除した。この徹底した言葉の管理は、オーストラリアなど他の英語圏にも波及し、歴史の書き換えは世界規模で完了したのである。
それにしても、言葉というものは恐ろしい。私たちは自分たちに都合の悪い過去や、見たくない社会の傷跡を消し去るために、言葉の意味をいとも簡単に書き換え、そして書き換えた事実そのものを集団で忘却してしまうのである。
だとすると、インターネット上で「それはサッカーではなくフットボールだ」と声高に叫んでいる現代のファンたちは、歴史の真実を守っているのではなく、巨大な忘却システムの上で無自覚に踊らされているだけなのかもしれない。私たちが必死に守り抜こうとしている「正統性」や「伝統」の境界線など、実はその程度の薄弱なフィクションによって担保されているのである。自分の正しさを証明するために、かつて自分自身が書いた日記を燃やして回るような滑稽な儀式は、何も国家間の争いやスポーツの呼称に限ったことではない。今日もまた、世界のどこかで新たな言葉が追放され、美しく浄化された歴史が再生産されていく。その無菌室のようなフィクションの世界で、私たちはいつまで自分自身の嘘に気づかないふりを続けられるのだろうか。

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