対話を捨てる高市早苗【じじネタ】
論破型SNS発信と辞書の独自改訂で対話を拒む高市首相。彼女の資質欠如は個人の問題にとどまらず、時間をかけた合意形成を忌避し「短く断言する顔」を求めた現代政治システムと私たちの欲望が生み出した喜劇である。絶望的な構造的病理を解き明かす。
連日国会を賑わせている「中傷動画」を巡る高市首相の答弁について、先日もラジオ番組『武田砂鉄 ラジオマガジン』(文化放送)内のコラムコーナーで政治学者の中島岳志氏がその「資質」の深刻さを指摘していたが、彼女の国会での振る舞いを眺めていると、人間は権力を握るとここまで見え透いたその場しのぎの嘘を平然とつけるものなのかと、怒りを通り越してある種の感心すら覚えるのである。
当初、彼女は動画の作成に関わったとされる人物について、極めて強気な態度で「面識のない方だ」と答弁していた。ところが、その本人が動画番組に出演して作成を認めるや否や、今度は「お会いしたことのない方」へと微妙に表現を後退させたのである。さらに野党から面識という言葉の定義を問いただされると、「ちゃんと名刺交換して相手を確認したことでないと面識とは言わない」などと、国語辞典の一般的な記述すら自分に都合よく書き換えてみせたのである。
要するに、一度ついてしまった嘘の論理的破綻をごまかすために、次々と新しい言い訳や独自の定義を繰り出し、事態を意図的に複雑化させて有耶無耶にしようとしているわけだ。腕に時計をつけていないにもかかわらず、手首に目を落として時計を見るふりをして質疑を打ち切ろうとした「エア時計」の所業に至っては、もはや一国の首相という以前に、社会を生きる大人として極めてお粗末な振る舞いであると言わざるを得ない。バカな話である。
それにしても、彼女の国会対応を見ていると、単なる虚言癖やその場しのぎのごまかしを超えた、もっと絶望的な「分別の欠如」に気付かされるのである。
参議院の予算委員会で動画問題の音声データについて追及され、いよいよ当事者の参考人招致が不可避かという空気が議場に漂った矢先のことだった。彼女は野党の質問とは全く無関係に「私どもの事務所にも昨年、腎臓がんステージ4を告知された秘書が元気に働いている」と突然語り出したのである。国会というカメラの回っている公開の場で、長時間の拘束に対する牽制のために、部下の極めてセンシティブな病状を唐突に暴露したのだ。これは客観的な感覚に照らし合わせれば、自らの保身のために他人の重大なプライバシーを盾にして見せる、巨大なハラスメントに他ならない。
過去の台湾問題に関する軽率な発言や、円安で苦しむ人々が多数いる中で外為特会の運用益を「ホクホクの状態」と表現した件も同様の構造を持っている。つまり、彼女には首相として「どこまで言っていいのか」「何を言ってはいけないのか」という、公人としての最低限のラインが全く見えていないのである。かつて彼女を熱心に応援してきた保守層や身内の言論人からすら、「首相として大丈夫なのか」という疑問の声が上がり始めているのは、当然の帰結であると言える。
だとすると、なぜこのような対話不能な人物が国のトップに立ち、そして一定の高い支持率を維持してきたのだろうか。その背景には、彼女自身の「コミュニケーションの拒絶」という個人的な病理と、現代日本の政治システムが抱える構造的な欠陥が複雑に絡み合っているのである。
本来、人間同士の対話や政治における会議というものは、互いの意見を交わしながら落としどころを探る「生成型」のコミュニケーションであるはずだ。日本の歴史的な「寄り合い」や、あるいは19世紀ヨーロッパの「ウィーン会議」のように、会議は踊ると揶揄されながらも、膨大な時間をかけてあーでもないこーでもないと議論を続けることで、当事者間に信頼関係という平和の土台が築かれていくのである。
しかし、高市首相はこうした「自分が変化することを前提とした対話」を徹底的に忌避している。選挙中の日曜討論を直前でキャンセルしながら午後の応援演説には駆けつけ、記者会見は極力開こうとしない。記者の質問は事前提出に限定して、再質問による議論の深掘りを許さないのである。彼女が好むのは、X(旧Twitter)のようなSNSを用いた、反論を許さない一方的な「伝達型」の発信だけである。要するに、彼女には他者の言葉に耳を傾け、自らの考えを精査する勇気がないのだ。
百歩譲って、これが一人の政治家の資質の問題であれば、次の選挙で落とせば済む話である。しかし、事態はもう少し絶望的である。1990年代以降、小選挙区制の導入や官邸主導への権力移行が進んだ結果、日本の首相に求められる資質そのものが根本的に変質してしまったからだ。
官僚主導から官邸主導へと権力が移行し、内閣人事局が官僚の生殺与奪を握ったことで、トップダウンによる迅速な意思決定が可能になったと持て囃された時期があった。だが、その副作用として、現場の専門的知見を持つ官僚たちは官邸の意向に過剰に忖度するようになり、政策の精緻な検証や、多角的な異論の提示は封じ込められてしまったのである。強力なトップダウンは、時に的確な対策に絞り込む作業を欠落させ、社会システム全体に過剰な消耗と疲弊を強いる結果を生み出した。
小選挙区制の導入も同様である。派閥による密室政治と金権政治を打破するという大義名分のもとに導入されたこの制度は、結果として党執行部への絶対的な服従を議員たちに強いる環境を作り上げた。公認を得られなければ政治生命が絶たれるため、議員同士の切磋琢磨は失われ、政治家全体のスケールは驚くほど矮小化してしまったのである。
かつての中選挙区制時代には、官僚組織を動かす実務能力や、派閥間の意見をまとめる泥臭い合意形成能力がリーダーの絶対条件であった。だが現在では、党執行部に公認権と資金が集中し、指導者は複雑な政策を深く理解することよりも、メディアやSNSで無党派層の感情に訴えかける「選挙の顔」としてのパフォーマンス能力ばかりが評価されるようになってしまったのである。世の中が複雑化し、将来の不安が蔓延する中で、人々は時間をかけた面倒な議論よりも、SNSでバシッと言い切ってくれる「論破」めいた短いフレーズを求めている。
さらに暗澹たる気持ちにさせられるのは、このような底の浅いポピュリズム的な発信力が重宝される一方で、権力の中枢は相変わらず強固な世襲によって占められているという事実である。約250の有力一族が国を支配するフィリピンの政治的王朝や、軍部と宗教が絡み合う中東の強権国家を、私たちは後進的だと笑うことはできない。日本は、民主的な選挙制度という洗練されたルールを厳密に踏襲するふりをしながら、実際には非課税の政治資金と地盤をそっくり引き継いだ世襲政治家たちが、極めて合法的に権力を独占し続けるシステムを完成させているのである。
対話を拒絶し、都合が悪くなれば辞書の定義を書き換え、官邸に引きこもってSNSで一方的な発信を繰り返す指導者の姿がそこにある。私たちは、まさに現在の政治システムと大衆の欲望が掛け合わさって生み出した「理想の顔」を戴いているに過ぎないのだと言える。自分たちが望んで作り上げたシステムによって、見事に自分たちの首を絞めているのである。全くもって、笑えない喜劇である。
