資本主義に抵抗するための読書、あるいは「いつか」のための本棚をつくる
私は大学3年生(4月から4年生)で、就活をしなければいけないので、しているのだが、自身が資本主義に取り込まれることへの恐怖が強まっているのを感じている。そして、資本主義への抵抗のひとつが私にとっては読書なのかもしれないと最近ぼんやりと思っている(もちろん、本は様々な資本主義的プロセスを経て、この世界に商品として存在し、私たちはそれを“消費”するのだが)。
ここでいう資本主義というのは単純に貨幣経済や消費社会のことを指しているのではないのかもしれない(自分で言っておいて“かもしれない”とはなんだ)。つまり、資本主義のひとつの帰結ともいえるだろういわゆる「コスパ」「タイパ」主義あるいはSNSやAIの台頭による「速すぎる」情報社会に対する抵抗として、「遅い」読書を置きたいのかもしれない(自分で…)。
こういうことを考えながら、自分の本棚を眺め、ふと「私が最後まで手元に残す本はなんだろうか」と考えた。都会のアパートは狭い。引っ越しには金がかかる。つまらない本をいつまでも持っていてもしょうがない。様々な理由で私はこれから本を手放していくだろう。ただ、「手放す本」ではなく「残す本」について考えたいと思ったのだ。
そのとき、倉橋由美子が次のようなことを書いていたのを思い出した。
吉田健一は自分の書架には本が五百冊もあれば十分だと言ったそうですが、繰り返し読むに足る本が五百冊もあるとは驚くべきことです。(中略)私の頭の中の偏愛文学館はまことに貧寒としたもので、五百冊もの本を並べることはとても無理です。
私は例えば山本貴光さんの図書館のようなご自宅や『積読の本』に載っているような本に囲まれた家々にどこかで憧れていたが、住宅事情・金銭事情といったことのみならず、自分の文学や書物の好みという点で、そんな図書館めいた部屋をつくることは不可能だろうということに気づいた。
倉橋由美子はまことに好き嫌いがはっきりしている作家だが、彼女が亡くなったとき、手元に残してあった本はいったい幾つだったのだろうか。私自身はいったい、何冊、あるいは誰の作品が手元にいつでも読み返せるように存在してくれれば満足なんだろうか。私にも、五百冊は多いように思える(というか、おそらく吉田健一は数千冊本を読んだうえで厳選しているだろうから、厳選しようにも私にはそもそも読んだ本の母数が足りていない気もする)。
ということで、何冊残すか、ということよりも、絶対に残したいものをとりあえず考えて、日々更新していくことにしよう。今のところ、確定しているのは川上未映子さんの作品すべて。
これからの数十年間は読みたい本をとにかく買って、読み、「いつか」のための本棚をつくることを目指したい。
