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【禅語と茶道】「喫茶去(きっさこ)」―温かい誤読と、唐の峻烈さのあいだで


掛け軸の三文字

茶室に入ると、床の間の掛け軸に「喫茶去(きっさこ)」と書かれていることがあります。
多くの方は、「まあ、どうぞお茶でも召し上がれ」という、分け隔てのない歓迎の言葉として親しんでこられたと思います。
私自身も色々と学習するなかで、長らくそう受け取ってきました。
温かく、慈悲深い、いかにも茶席らしい一句だな、と思ってきました。
ところが、この三文字には、まったく違う顔がある、ということを、以前、中国禅宗史の第一人者である小川隆先生のご講演を拝聴して、知りました。
しかも「どちらが正しいか」を突き詰めていくと、私たちが言葉とどう向き合うか、という問いにまで行き着くのです。
今日は、この一句を少し深く掘り下げてみたいと思います。

なぜ日本は「どうぞお茶を」と読んだのか

喫茶去に関する解釈

まず、日本でこの温かい解釈が根づいた背景から。
そこには「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」という精神文化があると思われます。
室町時代から安土桃山時代にかけて、千利休らが大成した茶の湯は、禅と深く結びついて育ちました。
狭い茶室では身分も立場も脇に置き、亭主と客が一碗を通じて心を通わせます。
「和敬清寂」「一期一会」、そして他者を思いやる心が、なにより重んじられました。
この文化のレンズを通したとき、「喫茶」は他者への温かなもてなしの象徴として受け取られます。
相手が誰であろうと「どうぞ一服を」と勧める。
日本の茶人は、この一句に絶対的な包容力を見出したのだと思います。
だからこそ茶席の掛け軸として、今日まで愛されてきたのでしょう。
これは決して浅い誤りではなく、日本文化が育てた一つの尊い読みだと私は考えています。

入矢義高先生が掘り当てた「唐の話し言葉」

入矢義高先生の業績

しかし近年、この読みに揺さぶりがかかっています。
その主要なきっかけは、禅語研究が進んだことにあります。
ここで登場するのが、禅語研究の碩学・入矢義高(いりや よしたか)先生です。
入矢先生は、禅の語録が記された唐代の「白話(当時の日常的な話し言葉)」を徹底的に読み解かれました。
その研究が明かしたのは、繊細な事実です。
この「去」は「去る」という重い動詞ではなく、ある動作を進行させる意思を表す助詞であると『禅語辞典』には書かれています、と横田南嶺猊下は述べておられます。

正しくは「茶を飲んでこい」または「茶を飲みにゆけ」という意味であって、あちらの茶堂(茶寮〉ヘ行って、茶を飲んでから出直してこい、という叱責なのである、とも書かれているようです。
本来なら「喫茶去」と言われたとたん、ギョッとなって忽々に退散せねばならぬはずである。
誤解がそのまま無反省に正統として踏襲されるというのは、敢えて言えば、日本禅に特有の独善的な体質の一つの現われでもあろうか

横田南嶺「お茶を飲みに行く」より

とも書かれています。
学問の進歩が、何百年も信じられた意味を更新していく。まさに日進月歩のスリルです。

横田南嶺老師の問い直し

円覚寺派管長の横田南嶺老師は、このような入矢先生の研究を踏まえ、字句に忠実に読めば「去」には「去る・行く」の意があり、「向こうへ行って茶でも飲んでこい」という、むしろ突き放すような一句になると指摘されます。
この「喫茶去」の出典は、唐代の趙州(じょうしゅう)和尚の公案です。
以前ここへ来たことがある者にも、初めての者にも、そばで疑問を呈した院主にも、和尚はただ等しく「喫茶去」と言い放ちました。
歓迎どころか、有無を言わせぬ一喝。
この落差を知ったとき、私はハッとさせられました。


三つの読みが、同じ方向を指している

「喫茶去」の意味合い

さて、ここが面白いところです。
「どうぞお茶を」という日本の温かい読み。
「まあ茶でも飲め」とも読める白話の読み。
「向こうへ行って飲んでこい」という峻烈な読み。
三つはベクトルこそ違えど、実は同じ一点を指しています。
それは、頭でっかちの理屈や執着を、いったん手放せということ。

趙州は「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」を説いた人でした。
悟りだ・迷いだと騒ぐより、目の前の一碗をただ飲む。
その当たり前のなかにこそ道がある。
慈悲の読みも、一喝の読みも、そして口語の読みも、結局はこの「ただ、いま、ここ」へと私たちを連れ戻すのです。

それでも、場を共にする

「喫茶去」への様々な解釈

学問の歩みは止まりません。
字句の正しさを問い続けることは、伝統に向き合う私たちの誠実さそのものです。
けれど、解釈が「どうぞ」であれ「飲んでこい」であれ、最後に残る一番大事なことは変わりません。
それは、理屈を少し脇に置いて、誰かと同じ空間で一碗を分かち合う――その時間の豊かさです。
意味は移ろっても、場を共にする営みの価値は、いつの時代も色褪せません。
そうした深さがあるために、茶道が今でも遺っているのかな、と私は考えています。

ここで、読んでくださっている皆さんに伺ってみたいのです。あなたにとっての「喫茶去」は、温かい歓迎でしょうか、それとも一喝でしょうか。
あるいは、意味を知って印象がガラリと変わった言葉や座右の銘はありますか。
ぜひコメントで、あなたの一碗の話を聞かせてください。

今週末は、理屈をそっと置いて、大切な誰かと一杯のお茶を飲む「場」を共にしてみてはいかがでしょうか。

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