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「蛭川博士」とロマンチック・リアリズム  湯浅篤志

※次に掲げた文章は、2016年10月31日に発行された、『新青年』趣味17号(『新青年』研究会)に掲載された「『蛭川博士』とロマンチック・リアリズム」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。
※なぜ、ここに拙稿を掲載したかといいますと、前回の記事(「長田幹彦と「蒼き死の腕環」」2025年6月9日付)の最後で、大下宇陀児の「ロマンチック・リアリズム」について言及したからです。私の「ロマンチック・リアリズム」の理解としてお読みになってくださると、たいへんありがたいです。なお、「蛭川博士」の内容について考察していますので、未読の方はご注意ください。

『新青年』趣味17号(『新青年』研究会、2016年10月31日発行)の表紙

大下宇陀児の「ロマンチック・リアリズム」
 
 探偵小説作家、大下宇陀児が描いた「蛭川博士」は、『週刊朝日』昭和4(1929)年8月11日号から同年12月22日号まで掲載された長編小説である。その冒頭の描写について、評論家の中島河太郎は「大下宇陀児論」(『別冊宝石67号 大下宇陀児読本』昭和32年6月15日発行)の中で、次のように語っている。

映画館の地下控室にたむろする不良青年の群の描写から筆を起す手法は、戦後の氏の諸作に通ずる傾向で、氏のリアリズムはここにも片鱗を現わしているようである。

 中島が述べた「氏のリアリズム」というのは、宇陀児が「烙印」(『新青年』昭和10年6~7月号)あたりから意識し始めた「ロマンチック・リアリズム」のことである。中島の言葉を借りていえば、「一人のすぐれた探偵が群小を眼下に見くだしながらすべてを解決する従来の探偵小説はヒロイズムだとして慊(あきた)らない氏」、つまり宇陀児は、「それらの作品に生きた血の通つている人間がいないような欠点を痛感し」てしまったらしい。それゆえ、生きた血の通う人間を物語上に造形するために「ロマンチック・リアリズム」という考え方を用いて小説を書こうとした。昭和4年に発表された、この「蛭川博士」の冒頭に、その「片鱗」がみられるということだった。
 もし「蛭川博士」の冒頭に、「ロマンチック・リアリズム」の「片鱗」があるというのなら、どのような部分なのであろうか。また冒頭にある「映画館の地下控室にたむろする不良青年の群の描写」が、どういう効果をあげているのだろうか。早速、考えてみることにしてみたい。
 まずは、物語の冒頭から引用してみよう。 

 大阪にしろ東京にしろ、都会の守備を以て任ぜられてある警察官達は、常に二種類の病気を診察し予防するところの御医者さんでなければならぬ。
 伝染病と犯罪と、この二つの病気を都会が慢性的に病(わずら)っているからである。
 伝染病には、スペイン風を筆頭にして、チフス、コレラ、ペストまでの恐ろしい奴があるように、犯罪にはまた、ヘアピンの万引から始まるおよそ四百四種以上の類型と手口とが存在している。そのなかで、かの不良少年と称せらるるものは、あたかも猩紅熱(しょうこうねつ)、もしくはヂフテリヤにも似たものであろうか。
 ある日のこと――。
 それは都会の学生達が暑中休暇ではるばる国元へ帰って行ったり、あるいは金持の子供達が幸福なキャンプ旅行をしに、海抜何千尺の高原へ出かけたり、そのため都市人口がふいに何%か減ってしまった七月末のある木曜日、東京山の手の活動写真館シネマ・パレードの地下室では、二人の浮浪児が至極呑気らしい恰好に寝そべっていた。

 冒頭は、都会を守る「警察官達」を「御医者さん」にたとえているところから始まっている。このような比喩を持ち出すのには、何か意味があるのであろうか。この作品と同時期に、随筆家として活躍していた医師の高田義一郎のエッセイの書き出しのようである。
 物語の結構としては、「警察官達」に事件の犯人たちを解明する医者的な役割を担わせていると考えられるだろう。「伝染病」の病原菌が「不良少年」であり、彼らが「都会」の犯罪を引き起こしてしまう。病原菌がこの世からなくならないように、「不良少年」もいなくならないのだ。
 しかし「都会」の「犯罪」は「警察官達」によって解決されるということを読者に暗示させる描写になっていた。読者は、このような期待を持って、『蛭川博士』を読み進めていくということになるだろう。
 だが、ここでもう一つ、読者への暗示領域があることに注意しなければならない。「都会」の「犯罪」をおかしやすい「不良少年」の居場所を強調するために、これらの前置きであるといえることである。引用部の最後の段落をみると、健全な「都会の学生達」や「金持の子供達」との対比を出しながら、この「蛭川博士」における犯罪をおこしそうな、いかにも不健全な「不良少年」を登場させていた。
 具体的に見てみよう。「七月末のある木曜日、東京山の手の活動写真館シネマ・パレードの地下室では、二人の浮浪児が至極呑気らしい恰好に寝そべっていた」とある。「七月末」という夏の盛りに「不良少年」が浮かれやすい時期を述べながら、「東京山の手の活動写真館シネマ・パレードの地下室」という場所を用いて「不良少年」にはよくあるたまり場を設定し、さらに「二人の浮浪児が至極呑気らしい恰好に寝そべっていた」と、だらしない恰好で、まったくどうしようもなく、けだるい真夏に退屈しのぎに事件をおこしそうな「浮浪児」の姿を描いていた。
 「蛭川博士」の最初が『週刊朝日』に発表されたのは、昭和4年7月末から8月頃である。しかし、これ以前において、盛夏に不良少年たちが、活動写真館で悪いことをするというイメージが、世間ですでにできあがっていたということを、ここで思い出してしまうのだ。
 前述した高田義一郎は、「附、夏期犯罪の現状」(『世相表裏の医学的研究』昭和3年)の中で、いくつかの新聞記事を引用し、大正15(1926)年当時の不良少年たちの危うさを述べていたことがあった。大正15年7月11日付の『東京日日新聞』からの引用記事を見てみよう。

梅雨あけから盛夏にかけて、美女のうす物につきまとふ不良少年の影は追々濃くなつてゆき、近県の避暑地、海水浴場はもとより夜の銀ブラ、活動写真館のやみと危険地帯は随分ある。警視庁不良少年係では、近く近県各警察に向け犯罪防止の打ち合せ通牒を発することになつてゐる。従来不良少年少女の巣窟は、浅草の活動街に指を屈したものだが浅草に向つて集中される様になつてから、彼等の働き場所も郊外や表面『高級常設』を看板とする写真館へと変りつゝある。

 大正15年の夏に、活動写真館が不良少年少女たちの「働き場所」になっている事実を述べていた記事である。昭和4年に発表された「蛭川博士」の冒頭部分の描写は、その頃の世相を反映させながら、不良少年のステレオタイプの生態を描いていた。それによって、読者への不良少年の思いを刺激しながら、リアリズム的な共感を高めようとしていたことが考えられるのだ。

不良少年のたくましさ

 「蛭川博士」のこの続きは、どうなっているのであろうか。

 一人は某大学を中途退学したという井波了吉。
 他の一人は、もと某国領事と日本婦人との間に生れたという混血児の桐山ジュアン。
 浮浪児とはいえ、どちらも実は二十歳の上で、しかしどこかにまだ子供らしい無邪気っぽいところがないでもなかった。ついでにいうとこのシネマ・パレードは柊(ひいらぎ)町と呼ばれるある坂町の中途にあって、余り大きくないけれど、山の手ではちょっと名の知れた館だった。近ごろ伴奏オーケストラをレコード音楽のエレクトロオラに変えてしまって、そのため従来の伴奏楽士達が払い箱になり、彼等の控室とされていた地下の一室が空部屋になった。そこへ、桐山ジュアンを首領格とする彼等の一団が、いち早く巣をくったわけなのである。どこから持ち込んだか小型の首振り煽風機をチェス台に乗せ、それを頂点に三つずつ並べた二列の椅子をへの字型に、二人はその椅子へ腹んばいになり、水の落口へ集まる金魚のように、頭を煽風機のところへ寄せていたのであった。

 物語の中で、重要な人物である桐山ジュアンの登場だ。「混血児」という出自であり、「二十歳」も過ぎているのに「子供らしい無邪気っぽいところ」があった。日本人か外国人か、よくわからない名前もそうだけれども、大人でも子供でもない、その境界線上に佇むジュアンであった。その彼を「首領」とする不良少年たちが「シネマ・パレード」の地下室に巣くっていたのだ。
 もう一人の不良少年である井波了吉も「某大学を中途退学し」ている、よりどころのない立場として描かれていた。彼らの根城の「シネマ・パレード」においては、無声映画からトーキーの時代への過渡期の波に翻弄された不安定な状況としてあるのがわかる。その場所も「坂町の中途」にあった。
 いずれにしても、作品を彩る登場人物やその背景などが、すべて、どっちつかずの不安定な状態として扱われることによって、多義的な印象を読者にあたえる効果があったといえるだろう。それは、世間の秩序から外れてしまっているというイメージを強調し、「不良」いうイメージを記号的に描くのに役立ったと思われる。
 しかし、その一方で、彼らの姿は活き活きとして描かれていたのが印象的である。「小型の首振り煽風機をチェス台に乗せ、それを頂点に三つずつ並べた二列の椅子をへの字型に、二人はその椅子へ腹んばいになり、水の落口へ集まる金魚のように、頭を煽風機のところへ寄せていた」という姿勢である。これを読めば、なりふり構わない姿で、二人が暑さをしのいでいる姿が見えてくる。
 生きるために「不良少年」たちが秩序を乱しても構わない、大袈裟にいってしまえば、ある種の「でたらめさ」が溢れている場面だった。また、「水の落口へ集まる金魚のように」という表現から、なんとしてでも生きていこうとする、動物的なたくましさを連想しても無理はない。
 このようにして、冒頭部分の描写をみてきたとき、罪を犯しそうな不良少年たちを類型的に描くだけでなく、そこには、人間としての〈生〉のエネルギーに満ちあふれている姿があったのが読み取れる。〈生〉のエネルギーは混沌としている。〈善〉も〈悪〉もない、生きるために、すべてを投げだし行動する力強さがあったのである。そういう〈生〉の迸(ほとばし)った姿に現れる多義的な表象を、宇陀児は「蛭川博士」の冒頭で描き、それに中島河太郎が「ロマンチック・リアリズム」の匂いをかぎとったのだといえるのではないだろうか。

混血児、桐山ジュアン

 桐山ジュアンは、「混血児」で「不良少年」という設定になっていた。そうであるならば、それ以前の物語として、里見弴の「多情仏心」(大正12年)に登場する西山普烈のことを思い出さずにはいられない。普烈もまた、「混血児」で「不良少年」だったのだ。
 初めて普烈が「多情仏心」に登場するときには、「美少年と云つても、可愛らしいと云ふのではなく、誰が見ても正確に二十歳とは思ふまいほどにふけてもゐるし、丈(せい)は四寸豊で、肉は薄く、キリヽとしまつた、凄い質(たち)の美しさだつた」と紹介されていた。ここでも「二十歳」を基準にして、その年齢をよく読み取れないという、あやふやな外見として普烈は描かれていた。
 普烈は、物語中で、主人公の藤代信之から活動写真製作の名目で金銭をだまし取っていた。これをみると、不思議なことに桐山ジュアンと同じく、普烈には活動写真(シネマ)のイメージが貼り付けられていたことが見えてくる。先ほど引用した新聞記事の状況、当時の世相を下敷きにした設定だったともいえるだろう。「混血児」「不良少年」「活動写真」の三つの組み合わせをさまざまな角度から描写することによって、物語のリアリズム的な前提をつくり出そうとしていた。
 さらにまた、西山普烈は「氷川町の外人殺し」の犯人としても描かれていたのだ。「多情仏心」の作者里見弴は、普烈に不倫のもつれから外国人のマッケンゼンを殺させて、不遇な家庭の負のイメージを引きずったままにしておいた。そして、それが裁判になる様子を描いていた。これは普烈の弁護士、藤代信之の〈まごころ〉を語るために必要な処置だったかもしれない。不良少年の更生にかける藤代の心情を強調したかったからだ。
 しかし「蛭川博士」の桐山ジュアンは、活動写真館を根城にする不良少年であったが、作者大下宇陀児によって事件を解決させる役割を担わせられていたといえるだろう。「多情仏心」の普烈とは、大きく違う役割であった。そこにはハッピーエンドを予感させるイメージがあった。深読みかもしれないが、宇陀児は、「蛭川博士」という物語において、「混血児」という当時の世間に知られたマイナスの設定を、プラスに読み換えて描こうとしたのではないだろうか。
 そして、この物語は、その桐山ジュアンが自分に着せられた殺人事件の汚名を、自らがぬぐう展開になっている点にも注目しなければならない。彼は独力で、殺人事件の真相を暴き出そうと奔走していた。しかし、「混血児」で「不良少年」という立場のため、こうした主体的な行動に、ある種の疑いを読者に抱かせる、読者に不安定さを感じさせる仕掛けになっていたのだ。そこに、作者、大下宇陀児の「蛭川博士」への創作に関する意識/無意識があったと考えられるだろう。
 読者は、従来の「混血児」で「不良少年」という人物のイメージにひきずられがちになってしまう。刑事の側からいえば、桐山ジュアンを筑戸欣子殺人事件の容疑者として受け取ってしまったこともあった。「シネマ・パレード」の弁士、東海林厚平と不良少年仲間の井波了吉が、それを利用しながら、桐山ジュアンを陥れるために書いた密告の手紙に、刑事たちが一定の説得力を感じるところもあったが、事件の流れを知っている読者から見れば、おかしいのに決まっているのに、はらはらどきどきしながら読んでしまう。そういう効果を、結果的に読者にもたらしていたのだ。
 桐山ジュアンの行動が、主体的であればあるほど、彼が犯人を追い詰めていく姿に読者は巻き込まれてしまう構造になっていたのである。ある種の、ねじれた面白みなのであるが、そういう仕掛けの前提を、前述の「蛭川博士」の冒頭部分に宇陀児は施していた。
 さらに、桐山ジュアンを、作者の宇陀児が主体的に動かしていくことによって、実は、鞠尾夫人の大どんでん返しが導かれることを読者は知るだろう。これは鞠尾夫人の旦那である蛭川博士が、本当にいるか、いないかが、わからない人間になっていたことにもつながっていく。
 つまり、読者に対して、登場人物の多義的な不安定さを強調することで、欣子殺しや蛭川博士殺人に対する事件の中心的なストーリー、いわゆる本格探偵物のプロットにさまざまなバリエーションを与えることを可能にしていたのだ。さらに、犯人探しの探究が横道にそれようと感じても、実はそうではないというふうにも読めて、物語に幅や奥行きを施すことになっていた。それは、鞠尾夫人のレズビアニズムを覆い隠す、いや、それを不自然と感じさせない、大いなる仕掛けだったといえるのである。
 その一方で物語は、銀座を走る自動車の中で、葉村博士を真ん中に挟んで、桐山ジュアンと美奈子の幸福そうな、これからの生活を暗示させる場面で終わっていた。一読すると、桐山ジュアンと美奈子、そして葉村博士が救済されたラストに映ってしまう。――甘い話になってしまうのだ。なくてもいいのではないか、とも言いたくなる。うがった見方をすれば、宇陀児のこういうロマンチックな終わり方を望む読者へのサービスといえるだろう。また、さらに言えば、これが戦後の宇陀児自身が「蛭川博士」を評した「愚作」という言葉の根拠につながる内容なのかもしれない。
 だが、こうした物語の終わり方こそが、作品冒頭における読者へのリアリズム的な共感作用を、ロマンチック化する条件だったといえるのでないだろうか。こういう終わり方をしていないと、冒頭の描写が「ロマンチック・リアリズム」の「片鱗」にならないといえるからである。
 この最後の甘い話を読んでいるからこそ、中島河太郎のいう冒頭の描写、すなわち「映画館の地下控室にたむろする不良青年の群の描写」を「ロマンチック・リアリズム」の「片鱗」として感じ取ることができたといえるかもしれない。つまり、最後に幸福そうになっているからこそ、冒頭の桐山ジュアンの行動を、生きた血の通う人間として振り返ることができ、奥行きを持った人物として見ることができたのである。

「ロマンチック・リアリズム」という概念とその時代性

 「ロマンチック・リアリズム」というスローガンは、不思議な言葉である。そもそも「ロマンチック」と「リアリズム」は相反する内容を持つ言葉であった。しかし、こういうねじれた言葉が創造されてしまう背景には、「ロマンチック」や「リアリズム」に対する疑いがあることはよく知られている。
 「蛭川博士」の発表された昭和4(1929)年から、さらに遡れば、大正7(1918)年頃にも、同じようなことが文壇で問題にされたことがあった。「リアリズム」に対する疑いが話題にされ、当時の作家、批評家たちが、「主観」をどのように考えているかが問題にされていたのである。
 なかでも、作家でありジャーナリストでもあった田中純は、「芸術上のリアリズムの運動は、結局、実感から離れ、実感を無視しただらしないロマンチシズムの文学を駆つて、再び実感の領域に立ち帰つてのやうとした運動に外ならない」と、大正7年当時の「リアリズム」を批判していた(「現実主義と理想化」『文章世界』大正7年10月号)。
 さらに、リアリズムの扱い方が、もともと「素材を確立しようとする点にあつたにも拘らず、その材料の変化を以て、直ちに芸術そのものゝ意義や目的や成立に変化したかの如く思ひ做して来た傾向がある」として、「リアリズム」への思い込みを暴露していた。つまり、「ロマンチシズム」の力を借りて「実感」に近づこうとしたのが、この当時の「リアリズム」の正体であったが、芸術の素材を変化させれば新しい「実感」を現すことができ、芸術の行き詰まった状況を打破できると思い込んでいたのだ。田中は、その思い込みを批判していたのである。
 大正7(1918)年頃は、欧州で第一次世界大戦が勃発していたが、日本には新しいヨーロッパ芸術の作品がたくさん入ってきていた。また、景気、経済も上向きになり、都会へ若者を初めとする労働者が流入し始めていた。自分たちの周囲を見渡せば、新しいものがあふれ始め、海外のモダンな生活に新たな実感を持てるようになってきていた。そういう時代だからこそ、芸術家や作家たちは、従来の「リアリズム」よりも、新しい「リアリズム」に何らかの手応えを持とうと懸命に試行錯誤していた。
 そうであるならば、大下宇陀児が「ロマンチック・リアリズム」を意識し始めた昭和10(1935)年頃は、どういう文学(芸術)時代だったのであろうか。
 そのトピックをあげれば、まず横光利一によって唱えられた「純粋小説論」が発表された年だったといえるだろう。そして小林秀雄が「私小説論」を書き、中河与一が「偶然文学論」を発表した年だった。昭和10年という〈文芸復興期〉にこれらのエッセイが集まったのは、やはり、作家たちに「文学」や「小説」に対しての疑い、不安、行き詰まりがあって、それらを乗り越えようとしたからだと思われる。
 とくに、横光の「純粋小説論」の冒頭で述べている言葉が気にかかってしまう。「もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない」と。
 ――その「純文学にして通俗小説」という、ねじれた意味を現すスローガンに、宇陀児の「ロマンチック・リアリズム」という言葉に通じる匂いを感じ取ってしまうのだ。「純文学」と「通俗小説」。それと並んで「リアリズム」と「ロマンチック」。
 推測になるが、たぶん大下宇陀児は、昭和10年という時代の中で、文学者たちと同じ〈言葉への不安〉を感じ、自分のフィールドである「探偵小説」というジャンルの中で、その創作方法について模索し、不安の時代へと立ち向かっていこうとしていたのではないだろうか。
 宇陀児は、同じく昭和10年の暮れに、こういっている。

純文学で且つ又ストーリーの豊富なものこそ、最も発展の可能性ありと考へます。大衆文学もそこを目ざし、純文学も、そこを目ざすといふ一点があるのではないでせうか。

(アンケート「最近の純文学の新聞小説への進出は発展性があるか?」への答え・「純文学を批判する」『日本学芸新聞』昭和10年12月7日付)

 この「純文学で且つ又ストーリーの豊富なもの」という言葉こそ、宇陀児がめざしたものであった。それが、戦後において「烙印」を単行本として出すときに、「あとがき」の言葉として立ち現れてきたといえるだろう。

探偵小説の中の「ロマンチック・リアリズム」

 昭和24(1949)年10月に発行された、単行本『烙印』(岩谷書店)には、「作者後記」があり、小説「烙印」については、次のように述べられていた。

 発表は新青年、昭和八年か九年だつたろう。三回の連載で、これは現在の私が書くものと、多少の共通点をもつている点で、私としては、記憶すべき作品のうちへ入るのである。つまり烙印あたりからして、私の作風にリアルなものが入つてきた。私の提唱するロマンチック・リアリズムである。探偵小説は――というと誤解を生じる、私の書く探偵小説――と言い直そう。私の書く探偵小説は、こういう線で進みたいと、その頃に私は考えはじめたわけである。怪奇な幻想、神秘な空想が、探偵小説には絶対必要であると考えていた時代は過ぎた。そういうものがなくても、探偵小説は成り立つのだ、と私は考えはじめた。その考えが今も私の頭の中にあるのは、幻想派空想派、またトリック派から見ると、たいへん物足りないことでもあるかも知れず、しかし私自身は、それによって探偵小説を、一段と大きく発展させることができると信じているのである。

 引用部に見られる、発表年や連載号数の記憶違いは、ここでは触れない。問題は「烙印あたりからして、私の作風にリアルなものが入つてきた。私の提唱するロマンチック・リアリズムである」という言葉である。さらに「怪奇な幻想、神秘な空想が、探偵小説には絶対必要であると考えていた時代は過ぎた」という部分も気になってしまう。
 つまり、探偵小説に「リアルなもの」なものを意識し始めたのが昭和10年頃であり、「怪奇な幻想、神秘な空想」は絶対に必要ではなく、逆に「リアルなもの」なものが「探偵小説を、一段と大きく発展させることができる」と信じていたことが問題になってくるのだ。
 この引用部だけでの説明では、「ロマンチック・リアリズム」というスローガンの内容はまだ不明確である。「リアルなもの」が入ってきたというところは、だいたいイメージがつかめるけれど、「ロマンチック」とは、どういうところを指すのだろうか。
 宇陀児は、『ぷろふいる』昭和10年1月号に「探偵小説不自然論」を書いている。それを読むと、「ロマンチック」にからめて、探偵小説の不自然さを説明しているのが窺われる。

 探偵小説に、なぜ不自然さが多く含まれるかといふ理由は、無論誰でも知つてゐるだらう。
 表面的にいふと、それは探偵小説が、常に出来るだけ怪奇な事件を持つて来たり、読者の最も意外とする結末を作らうとしたり、奇想天外的なトリツクを扱はうとしたりする結果だし、更に突込んでいふと、現代を背景として物語られる探偵小説の筋は、主な狙ひがロマンチシズムにあり、しかも現代は、さういふロマンチシズムに適しない世相を有つてゐるといふことにもなる。探偵小説のロマンチシズムに適合するやうな現代の姿を拵らへようとして、作家は随分苦心する。苦心の結果無理が来る。無理が不自然となつて来るわけだが、茲に猶一つ見逃してならないことは、探偵作家の態度である。

 宇陀児は、ここから探偵小説に不自然さがつきものであると考えている。作家的良心を麻痺させてはならず、作家にとっては、随分苦しいことであるが、そろそろ探偵小説の不自然さをどうにかしなくてはいけない時期ではないかと警告をしていた。
 宇陀児の考えに従えば、「怪奇な事件」や「意外な結末」、そして「奇想天外なトリック」に関わった出来事が「ロマンチシズム」であるといえそうである。しかし、そのような内容が適さない現実的な時代になっているのに、探偵小説ではロマンチシズムを描こうとしている。そしてその無理が「不自然」を生むのであり、それをどうにかしなければということを、宇陀児は言いたかったのであろう。
 この悩みから、すなわち、昭和10(1935)年という文学時代の状況の中で、宇陀児自身が、確実に「リアルなもの」を意識し始め、それを「ロマンチック・リアリズム」とし、探偵小説の中で昇華させようとしていたのと考えられる。そして、その「片鱗」が、すでに昭和4(1929)年の「蛭川博士」の冒頭に宇陀児によって、無意識に描かれていたと言えそうなのである。

昭和10(1935)年の探偵小説

 しかし、その一方で、このような「探偵小説」のありかたに不安を感じたのは、大下宇陀児だけではなかった。『新青年』を牽引してきた名伯楽の森下雨村もまた、同じような不安を感じていた。
 雨村は、昭和10年に「軽い文学(ライト・リテラチウア)の方向へ」(『ぷろふいる』昭和10年1月号)を発表している。くしくも宇陀児の前述した「探偵小説不自然論」と同じ掲載号である。雨村は「軽い文学の方向へ」の中で、大衆を相手にした肩の凝らない「軽い読物」をもっと書かなければいけないとし、それによって探偵小説界の行き詰まった状況が変わっていくのではないだろうかと、「軽い読物」に期待をかけていた。
 こうした探偵小説界の流れを、水谷準は「探偵小説界」(『文芸年鑑1936』)の中で、次のように述べていたのが気にかかる。

 長篇小説これまでもあまり盛んではなかつたが、今年も全く貧弱な収獲であつた。僕の印象に残つたのは只だ二つ、一は週刊朝日連載の森下雨村作「丹那殺人事件」一は夢野久作書卸し『ドグラ・マグラ』である。
 「丹那」のよさは、森下雨村日頃の持論である「ライト・リテラチユア」の持つ気安さである。

 昭和10年発表の『丹那殺人事件』と『ドグラ・マグラ』を、水谷は認めていたのだ。『ドグラ・マグラ』については、「この巨弾を突如読書界に投げつけたその勇ましい姿は、何はともあれ拍手するに足るものであった」と褒めている。
 つまり、昭和10年という時代は、水谷によれば、『丹那殺人事件』の「気安さ」と『ドグラ・マグラ』の「巨弾」であることが、斯界を生き抜くためには必要な要素だったということになるだろう。言い換えれば「軽やかさ」と「強度」の目立つ両端の作品が評価される時代だったのである。
 さて、これは、どういったことを意味するのであろうか。昭和10年という時代を、探偵小説で乗り越えていくためには、作品の醸し出す「軽さ」か、あるいは「重さ」が必要であり、そうでなければ立ち向かえなかった時代状況だったことがわかるだろう。それは大きな〈不安〉が、人々の心を覆っていたことをも暗示している。
 そういう文学時代の中で、大下宇陀児は「ロマンチック・リアリズム」に気づき、それを信念として、小説に向かっていったといえるだろう。やがて、その試みは戦後、創作のための大きな自覚となり、新たな作品をつくり出すことにつながっていく。「石の下の記録」(昭和23~25年)や「虚像」(昭和30年)の誕生であった。
 戦後に花開き、昭和30年代に満開になった〈中間小説〉というジャンルがあるが、そのような新しい意味合いにおいて、宇陀児の「探偵小説」が生みだされたと言ってもいい。別の言葉でいえば、森下雨村の提唱した「軽い文学(ライト・リテラチユア)」を根に持つ、社会派小説にもたとえられるかもしれない。
 ――そこに、大下宇陀児の提唱した「ロマンチック・リアリズム」が、時代を超えた先駆的な意味として立ち上がってくるといえないだろうか。


出会い (AIに作成させました)


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