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「私が頑張れば回るから」の10年後を見てみたら、その人の居場所は家族の「外」だった

「私が頑張れば回るから」の10年後を見てみたら、その人の居場所は家族の「外」だった

つい2週間ほど前、僕はこういう記事を書いた。

妻を助けているつもりで、僕は彼女の「困る権利」まで奪っていたのかもしれない。これからは、彼女が困る前に一拍置きたい。

【カサンドラ症候群】「自分ばかり」のその先へ

もっと前には、こんな記事も書いている。

僕はずっと、職場の地雷処理班だった。気づいた人だけが損をする構造から降りるために、足場をここに置く。

【シャドーワーク】僕はずっと、職場の”地雷処理班”だった

どちらの記事も書いた時、僕は自分がもう「この立ち位置」から降りられると思っていた。

でも、どうやら何も変わっていなかったようだ。

***

ついこの前、地区の懇親会があった。そこで「ワインが好きだ」というご近所さんと「こんどワイン会やりましょう」と盛り上がった。

家に帰ると僕はさっそく通販サイトを開いて、ワインを取り寄せる段取りを考え始めた。

「Aさんは南仏のワインにはまってるって言ってたよな。Bさんはフランス北部の白ワインが好みらしい。Cさんは、たしかドイツのちょっと甘めのワインが好きだったな。で、僕のイタリアワイン。このバラバラな趣向のワインを、なんとか一つのお店で調達できれば送料を節約できるんだけどな…」

そこに妻がやってきて、僕の画面を覗き込んでこう言った。

「そもそもあなたがみんなの好きなワインをまとめて買うっていうのは、決まったことなの?また勝手に”自分の担当”にしてるんじゃない?」

図星である。
ああ、またやってしまった、と一瞬へこんだ。

ただここ数日、この問題は「意志の弱さ」とかそういう単純な問題でないのかもしれないと、そう思うようになってきた。

それは、「10年後の僕」を見たことがきっかけだった。


その人は、止まらないのではなかった

「本当に意志の強い人だよね」

その人が、大きな事故から元の生活へ戻った時、周囲の人はそう言った。

まだ痛みは残っているはずだし、以前と同じように動ける身体ではなかったはずだ。

それでも少し動けるようになると、その人はすぐに仕事に戻り、家族の用事を一人で回し、誰かの困りごとを片付け、以前と同じ「立ち位置」へ一瞬で戻っていった。

周囲には、それが強さに見えたらしい。

でも、僕にはその人が、止まらないのではなく「止まり方を失っている」、そんなふうに見えた。

そして僕は、その姿がまったく他人事には思えなくて、少し怖くなった。

それはまるで、10年後の僕の姿を見ているようだった。

なぜならその人は、僕がふだん言っているのと同じことを言っていたからだ。

「私がやれば大丈夫だから。」

僕にも、その言葉の入口がある

僕は、誰かに頼まれたわけでもないのに、全体を回そうとする。

飲み会に行けば予約から注文、空いた皿の片づけまで気を配り、挙句の果てには全員の終電まで確認する。旅行に行けば勝手に添乗員になる。人を家へ招く時は、料理も飲み物も自分で用意して、「何も持ってこなくていいよ」と言いがちだ。

このあたりは、以前の記事にも書いた。

僕がやった方が早い。
僕が考えた方が抜けが少ない。
僕が全体を見た方が、たぶんうまくいく。

実際、僕はそういうことが比較的得意なんだと思う。

問題に気づいて、先回りする。
複数の条件を同時に見て、全体が破綻しない形を考える。

だから、「誰かが困っているのに、自分には解決方法が見えている」という場面で、僕にとっては「何もしない」という選択肢を取ることがとても難しい。

できるのに、やらない。僕にはそれが無責任に感じられてどうにも気持ち悪いのだ。

言ってみれば、僕の中には、誰かの困りごとを見つけるとすぐに車を降りて、「僕が押すから大丈夫です」と後ろへ回り込む、そんな癖がある。

最初は、それで家族が救われた

あの人も、最初から何でも背負いたかったわけではないのだと思う。

ただ、その時に動けたのが彼だった。

その人を見ていた時、僕の脳裏に、ある奇妙な光景が浮かんできた。

***

ある日、家族が乗っていた車のエンジンが止まった。

途中で立ち往生するわけにはいかない。

家へ帰らなければならない。
子どもを送り届けなければならない。
明日からの生活も続けなければならない。

だから彼は車を降り、後ろから押し始めた。

彼にはそれだけの力があったから、押せば、車は動いた。

家族も安心し、彼も「俺が押せば大丈夫」と思った。

最初は応急処置だった。

修理工場へ着くまで。
家族の誰かが動けるようになるまで。
目の前の危機を抜けるまで。

そのつもりだったのかもしれない。

けれど、彼が押しさえすれば、車は本当に進んだ。

彼が思っていたスピードよりはるかに遅くても、彼がどれだけ苦しくても、家には帰れた。

だから、彼は翌日も車を押して出かけることにした。
やることがたくさんあったから、修理工場に行く暇がなかった。

「いったん落ち着いたら、修理工場に行こう」
そう言って、エンジンは壊れたままだった。

車が前に進んでいる限り、エンジンの故障はその家では「緊急の問題」にはならなかった。

家族は車に乗ったまま、それぞれの時間を過ごした。

荷物は増えて、子どもも大きくなった。
家族は新しい生活のステージへ進んでいく。

それでも彼だけは、車の外から一生懸命押し続けた。

彼が家族を前へ進めたのは間違いない。

でも、彼は、そのせいで家族と一緒には、車に乗っていなかった。

長いあいだ彼が車の外から押し続けたために、車内にもともとは彼の席があったはずなのに、本人も家族も、その席に誰も座っていないことに気づかなくなっていった。

家族は彼のおかげで前へ進んだ。
でも、彼は、車の外で年を取っていった。

誰も車を降りなかった理由

僕はこの絵をしばらく眺めていて、少し奇妙に思った。

なぜ、車内の人は降りて一緒に押さなかったのだろう。

なぜ、誰もエンジンを直そうとしなかったのだろう。

なぜ、あの人だけが車を押している状態を、何十年も続けられたのだろう。

これが本当に車の故障なら、こんな妙なことにはならない。

でも現実の家族(たぶん仕事でも同じだろう)では、こういう構造はもっと静かに出来上がる。


誰かが担わなくても、彼が埋める。

誰かが困りそうになれば、彼が先に処理する。

子どもが失敗する前に、彼が手を出す。

家族が外部と交渉しなくても、彼が代わりに話す。

問題が起きていなかったのではなくて、彼の能力によって問題が表面化しない状態が維持されていた。


もちろん、これを「彼が家族を依存させた」という話にしたいわけではない。

家族の事情も、それぞれの責任も、外から簡単に決められるものではない。

ただ、一人が不足を埋め続けると、不足したままでも全体が動いてしまう。

そして車が進んでいる限り、誰も構造を変える必要に迫られない。

彼は家族の問題を解決すると同時に、家族がその問題を解決しなくても進める構造も作ってしまった。

それは責められるべき失敗ではなく、目の前の危機を乗り切った成功だったのだと思う。

でも、いやだからこそ、やめる理由が見つからなかったのだ。

同じ言葉が、意味を変えていく

「私がやれば大丈夫」という言葉は、時間とともに少しずつ意味を変える。

最初の頃は、「私がやれば大丈夫」は、自分の能力でその場を救えるという意味だった。

十年後にこれが、「私がやらなければ進まない」に変わる。
家族や周囲が、その人の働きを前提に組み替わっているからだ。

さらにその先では、「私が押さなくて良くなったら、どこに座ればいいの?」という状態になる。

そのころには、「家族」という車を一人の力で押すことが、ただの作業以上の意味を持ち始めている。

家族への愛。

親や夫としての誇り。

自分の有能さ。

周囲から必要とされる理由。

「強い人」「頼れる人」という評価。

自分がこの家族にいる意味。

それらがすべて、車を押し続けることに絡み付いていく。

だから周囲が、

もう休んだ方がいい。
そこまでしなくていい。
今度は自分のことを考えて。

と言っても、簡単には止まれない。

その人にとっては、押すのをやめること イコール 単なる休息ではなくなっているからだ。

その人にとっては、押すのをやめることは、家族を見捨てる、無責任な人になる、役に立たない自分になる、そういう意味に繋がってしまう。

言うなれば、何十年も車の外にいた人に、「もうあなたも限界でしょ。どうぞ車内に戻って、自分の席に座ってください。」と言っても、本人にはその席がもう見えなくなっている。そういう状態なのだと思う。

彼は「自分が車を押している」と思っていたけれども、実際には、押すことによって自分自身も立っていたのだ。

痛みが引くと、また後ろへ回る

その人について考えていたら、「そう言えば、さらに10年後の僕も、見たことがあるな」と思い出した。

その老人は、自分自身が誰かの助けを必要とする身体になっているのに、まだ家族の世話を続けようとしていた。

医者から、「今のあなたは人の世話をしている場合ではありません」と言われても、頑なに元の役割へ戻ろうとする。

身体の症状も、検査結果もすでに、「あなたは、支えてもらう側です」と訴えている。

それでも本人の中では、「私は、支える側です」という認識が変わらない。

「私がやるしかなかったんです」は、もともとは状況の説明だった。

でもこれを何十年も繰り返すうちに、「私は、支える側の人間である」という老人の存在証明に変わっていったのだと思う。

だから身体が壊れても、ほんの少しでも症状が落ち着けば、また車の後ろへ回っていき、車を押そうとする。

周囲はこの人についても、「本当に家族愛が強い人だよね」と言う。

でも僕は、もうその言葉を以前と同じ意味では聞けなくなった。

半年前の僕が、書けなかったこと

僕もこのまま何でも引き受けていたら、いつか壊れるかもしれない。

もちろん、それも怖い。

でも本当に怖くなったのは、そこではなかった。

僕はどこかで、「限界になれば、さすがに止まれるだろう」と思っていたところがある。

身体を壊せば、休むだろう。

大きな失敗をすれば、やり方を変えるだろう。

もう無理だと分かれば、誰かに任せるだろう。

2週間前に「一拍置きたい」と書いた時も、その前提で書いていた。

置こうと思えば、置ける。
降りようと思えば、降りられる。
まだ間に合う。

でも、実際にはそうとは限らない。

長いあいだ「私が押すから大丈夫」で生きてきた人は、限界になっても、限界を超えても、車の後ろへ戻ってしまう。

「強い」人が強く見えるのは、壊れないからではなく、壊れても元の持ち場へ戻ってしまうからだった。

僕が「シャドーワーク」の記事で書いたのは決意だったけど、決意はたぶん筋肉と同じで、使わないと落ちていく。

車が重くなり、家族が僕の力を前提にし、押すことが自分の存在理由になった後、僕は「そろそろ車内へ戻る」と言えるだろうか。

それが分からなくなった。

だから、一度だけ試した

僕は幸い、まだ引き返せる場所にいる(と思っている)。

だからこそ、まだ押せるうちに手を離す練習が要ると思った。

今週末の地区のイベントに、抜けがあることに気が付いた。
と言っても、大した抜けではない。
起きるかもしれないし、起きないかもしれない。
起きたところで、誰かがほんのちょっとがっかりするかもしれない、その程度のことだ。

で、いつもの僕だったら、先回りしてプランBとプランCぐらいまで考えてしまう。ただ、今回はぐっとこらえた。

しばらく、僕は自分の手が落ち着かないのを感じていた。
気が付いたら、スプレッドシートを開いて段取りを考えそうになっていた。

たぶん僕は、誰かががっかりするのを見たくないというよりも、「未来が見えているのに対策を考えない」自分に耐えられないのだと思う。

でも今回、なんとなくわかったような気がする。
手を離すというのは相手を困らせることではなく、「自分が役に立っていない時間は自分の席に座っている」、そういうことなのだろうと。

今までの僕は、「自分の席に座る」座り方をすっかり忘れてしまっていた。

だからこそ、今のうちに練習する必要がある。

限界になってからではなく、まだ押せるうちに、あえて手を離す練習だ。

「今だけ僕がやる」と言う時には、いつまでなのかを決める。

自分でできることでも、一つは人に渡す。

相手が少し困っても、すぐ後ろへ回り込まない。

自分なら百点でできることを、誰かが七十点でやっても取り返さない。

今はまだ、手を離した瞬間、ものすごい不安が襲ってくる。

車は一度、止まるかもしれないし、誰かが困るかもしれない。
空気が悪くなるかもしれない。

それでも、いったん車から手を放して、「自分の席」に座ってみる練習を続けてみようと思う。

ただ、手を放したあとの数分を、僕はどう過ごすか決めていなかった。

座る練習だと言いながら、座る場所のほうを、まだ一度も用意していない。

手を離したあとの数分から、980円です

十年後の僕がこの記事を読み返している場面を、ときどき想像する。そのとき僕がまだ車の後ろにいるとしたら、たぶん、ここまでの話には全部うなずいている。うなずいて、翌朝また押しに行く。

あの言葉の中身は、もう変わったと思う。「私がやれば大丈夫」は、意志の強さでも、家族への愛でもなかった。目の前の危機を乗り切った成功が、そのまま構造として据え置かれただけだった。強い人が強く見えるのは、壊れないからではなく、壊れても持ち場に戻るからだ。

ただ、僕が一度だけ手を離してみたあの数分は、練習としては失敗している。手は離せた。離れていた時間が、どこにも収まらなかった。

やめる練習は、やめたぶんの時間を空白にする。空白は落ち着かない。落ち着かないとき、人はいちばん慣れた動作に戻る。僕の場合、それが車の後ろへ回り込むことになる。手を離す練習だけを何度続けても、離してから戻るまでの間隔が短くなっていくだけだ。

座る場所には、条件が一つある。誰の役にも立たない場所じゃないといけない。 役に立つ場所に座ると、そこで人の不足が見えて、また押し始めるからだ。僕はこれに気づくまで、空いた時間で家の細かい修繕をしていた。座っているつもりで、車を乗り換えていただけだった。

980円は、これから十年ぶんの練習に払う値段になる。今日の一件には、たぶん効かない。今日うっかり「僕がやります」と言ってしまった人が、これを読んで今日それを取り消せるようにはならない。効いてくるのは、同じ場面が何度目かに来て、そのとき一度だけ手が止まった日だ。

押している車が一台なら、決めた日に降りられると思う。

  • 抱えているものが一つだけの人。降りる順番を考える必要がないので、ここから先はほとんど関係がない

  • 家族や職場の側を変えたい人。この記事はエンジンに触らない。外から押している側の話しかしていない

  • 押すのをやめたあとに何をするかが、すでに決まっている人。座る場所を作る話が、ここから先でいちばん長くなる

判定に使えるのは、周りの言葉だと思う。「無理しないでね」と言われて、無理はしていないと本気で思ったなら、ここから先が要る。

  • 病気や怪我のあと、動けるようになった初日に元の量へ戻した

  • 何もしていない休日の夕方に、だんだん落ち着かなくなる

  • 家族や同僚が自分のやり方で進めているのを見ていると、途中で手が出る

  • 「あなたがいるから回ってる」と言われて、嬉しさより先に少し怖くなった

いま自分が何段目にいるかの見分け、押していない時間の置き場の作り方、それを隠さずに済ませる週の組み方、そして十年ぶん積んでしまった人がどこから順に降りるか。この四つを、生活の粒度まで下ろしてある。

十年後、その車がまだ坂を登っているかどうかは、僕には分からない。ただ、窓の内側と外側では、同じ坂の見え方が違う。

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顔色を読む、断れない、仕事や家事を抱え込む、身近な人を助けすぎる。そんな「頑張りすぎ」を性格のせいにせず、責任の分け方の問題としてほどきます。すぐ試せるメモや言葉、停止手順まで持ち帰れる25記事です。

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