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リンリンリリンリンリンリ倫理ィリンリンリリン手の倫理ン♫


倫理という言葉の重みが私にはあまりにも不相当だったのでタイトルだけはフィンガー5で歌わせてもらった。

例えば、今あなたが19歳だとする
心踊るときめく異性と巡り会ったとして
その人と紅く染まる浜辺に2人座っていたとして

絶妙の間で会話が途切れた時、
男性であるあなたが相手の肩にそっと優しく手を伸ばせば、女性の方はその優しいアプローチに安心感と信頼を感じ取るかもしれない。
無造作に手を回し引き寄せれば( され方の好みは別にして ) 、女性からすると不意に緊張感を覚えたりするのではないか。
この例えは私が考えた下手な例えである。

同じtouchであるのだけど、行為としては前者を「ふれる」後者は「さわる」に分類されると言う

「手の倫理」( 伊藤亜沙著 )という本は、このふれるとさわるの違いを語る話から始まる。
手にまつわる話にとどまらないその感覚触感を軸にした考察がとても深く広がっていくのだが、後半私の頭では理解が追いつかず、まだ読了できずにいる。
目から鱗的な話も多い。
接触を伴うセクシャルハラスメント、その線引きや認識が果たしてどこまで正しいのか、幼児に石や砂、形ある玩具などに触れさせる意味、目の不自由な人の感覚世界、また私等の世代では小学生時代輪になって踊るフォークダンスなるものをやらされた記憶があるが、その取り組みに込められた意図や根拠と言ったところにも話は及ぶ。何十年も時を経た今、そんな種明かしはなんだか刺激的だったりするのだ。

先日とある事情で読み返す機会がたまたまあり、あらためてふれてみようと思い立った。
そう、こんな時も「ふれる」と言ったりする。気分転換に外へ出てみようとなった時、外気にさわるとはあまり言わない、そこはふれるになる。
本書のこのあたりの話も面白い。

触感、視覚聴覚、嗅覚味覚と言う五感があって、脳で感じる感覚というモノはその基本とは別なのだろうか。それともそれは感覚ではないのかな。
子孫繁栄が途切れぬよう性交という行為に快楽という感覚が紐付いているカラクリは考えれば考えるほど壮大だと思う。そんな事を思うのは私だけなのかもしれない。

もうすぐ16歳になる愛犬も最近は視覚の衰えが顕著だ。頭を撫でようと手を伸ばすのも、それこそこちらが「ふれる」ように意識しないと怖がってしまう。目を見つめると、どの程度見えているのかどうか分からないがじぃと見つめ返してくる。
ふれるという感覚が触感だけの感覚ではない事がよく分かる。


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