贋作師ーフォセールー#1
海は静かだった。
荒れる日が多いドーバー海峡は嵐の前の静けさのように、わたつみの神は眠っていた。
コクピットから見える海原は、一面大小様々な形の船で溢れかえっている光景なのだが、陸からの黒煙による邪魔が入った。
黒煙の風向きが変わると、どの船もよく見えた。
中規模の軍艦から小さな貨物船まで。
1940年5月。
ダンケルクではぬかるみの中、空からの爆撃を命からがら避けながらも船を目指して進んでゆく兵士たちが敗走の行軍を繰り広げていた。
英仏両軍は鷹の如きスピードでヨーロッパ西北を陥落させてゆくドイツ機甲師団の前になす術が無かった。
フランス軍に至っては第一次大戦と同じ「守り」の戦法を踏襲し、かつ軍機械の開発に遅れていた。
機甲師団は、ベルギー、北フランスにおける連合軍を完全に包囲した。
40万人もの連合軍第一軍は、フランス本土の最北端であるダンケルクまで追いやられてしまう。
しかし、総攻撃は始まらない。
総統は告ぐ。
「フランドルは、空軍と歩兵で始末せよ」
機甲師団へのダンケルクへの進軍停止命令が出たのだ。
たった二週間の進軍で、師団の戦車一割がお釈迦となった。
これ以上の損傷を防ぐ為と南フランス戦に向けて戦車を温存させる目的であった。
総統の一声を今か今かと待ち侘びた第19装甲軍団司令官であったハインツ•グデーリアンは、歯軋りした。
現場を知らぬ上層部からは、命令に従わぬ危うさを持つ、と懸念されている老兵だが、機甲術に優れ、誰よりも合理的にスピーティに戦を展開させる電撃戦の生みの親である。
今叩いておけば、英国の牙を抜くことが出来るのに。
何故総統は攻撃を開始させない?
第一線で戦い続けてきたこの初老兵は、今叩いておかねば後々に厄介なことになりかねないという歴戦の勘が、痛憤と共にざわざわと湧き起こっていた。
目の前まで追い込んだ連合国軍兵士を潰せず、みすみす逃す苦渋を味わい忌々しく空を仰いだ。
「どうせ、ゲーリングに花をもたせてやったんだろうが。だが、あのふとっちょでは堕とせん。
それどころか、敵に一層の強壮剤を与えることになるだろうよ。ペルビチン以上のな!」
多くの船と共に、岸に向かってギリギリの距離までつめた古い貨物船では、船頭の親父ヒューが、息子のマイクに声をかけた。
「そろそろだ。軍人さんに伝えろ」
マイクは船倉へ降りて、待機していた二人の衛生兵に伝えようとドアを開けた。二人の兵士はすでに整えて立っていた。
一人の衛生兵は畳まれた担架を軽く片手で持った屈強な大男だ。伍長の階級章をつけている。
もう一人の衛生兵は、少年のような蒼白い幼い面持ちだった。
「兵士たちが乗船する合間に、岸へ上がって下さい。我々はあなた方のお手伝いができて誇りに思っております……どうか、ご無事で」
厳つい面持ちの伍長は温厚な青年に謝礼を述べた。
「突然の申し出を快く引き受けてくれてありがとう」
二人は硬く握手を交わした。
もう一人は、何も言わずにそれは美しい敬礼をした。
こんな子供のような兵士まで投入しているのか……と、マイクは心配だった。この兵士が蒼白いのは、船酔いをしているからだ。船に乗って30分もしないうちにデッキに登ってきて裏で海を見下ろしていた。余程緊張しているのかもしれない。
チャーチル首相のダイナモ作戦で、民間船も投与との発令を受けて親子ですぐにかって出た。兄のジョンが第一軍で戦っていたからだ。兄を助けたかったし、安否も分からなかった。
出発直前の夜、彼らも同乗させて欲しいと黒いソフト帽を被った男が二人を連れてきた。
突然の、全く知らない人達の訪問で最初は不審に感じていたが、諜報機関の軍人であるその男は、ジョンが無事であることを知らせてくれた。
「ただ、ライトさん。この二人をフランスへ送った事は今後一切、誰にも秘密にしてもらえないでしょうか。たとえ戦争が終わっても」
兄が生きていることを知った親父は、涙を流しながら固く頷いた。
昨夜から今まで、少年は一度も言葉を発さなかった。デッキから魚に餌をやっているときでさえ、だ。二等兵だろうか。軍属かもしれない。
「ご無事で」
マイクは痛いたけな少年の瞳に向かって、それしか言えなかった。
デッキへと上ってゆく二人を見送り、マイクはドアを閉めた。
船倉の粗末な二つの椅子の上には、飲んだばかりの紅茶の残りがカチャカチャと揺れていた。
