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キューバ危機 Cuban Missile Crisis 1962/10/15~10/28

 キューバ危機は世界が核戦争の危機にもっとも近づいた事件として有名。だがこの事件は、アメリカの喉元にキューバという「社会主義国」が存在を続けているその原因となった事件でもある。
 キューバ危機の発端は1962年10月15日に、アメリカがキューバにICBMの基地が建設中であることを確認したことに始まり、フルシチョフがこの基地の撤去を指令した10月28日をもって、終っている。
   キューバでは、バチスタの独裁政権が続いていたが、カストロたちは1953年以来、これと闘ってきた。1959年1月1日にはバチスタが国外逃亡し、1月8日には革命軍がハバナを解放した。樹立された革命政権の社会主義的傾向を嫌ったアメリカは、反革命軍によるキューバ侵攻を支援するが、この侵攻は短期間で失敗する(1961年4月17日~20日)
 侵攻の再来を恐れるキューバ政府は、ソ連に接近して、地対空ミサイルの供与を求める。
 当時、アメリカは、1959年にイギリス、また、1961年にはイタリアに、ICBMを配備して、ソ連に対してICBM包囲網を構築しようとしていた。ソ連はこのアメリカの戦略に対抗する狙いがあって、キューバの求めに応じて、キューバにICBM基地を建設することを1962年7月に決定したとされる。
 当時、アメリカはU2と呼ばれるスパイ飛行機で高高度から地上を撮影して、敵方の動静を監視していた。キューバ侵攻の後も、監視していたところ、10月14日に撮影した映像の分析により、翌15日にICBM基地建設を確認するに至った。サムネイルはこの時のGame Treeーである。この日から2週間、米ソはいつ核戦争に陥ってもおかしくない緊張状態に置かれた。
 ケネディはICBMを積んだソ連船団の進行を阻止するとともに、ミサイル基地の建設中止、撤去をソ連に要求した(10月22日)。最終的に、フルシチョフの判断で、キューバ侵攻を米国があきらめることを条件に、ミサイル基地の建設は中止され、キューバ危機は終わった(10月28日)。これが、公式の説明であったが、実は、トルコに置かれた米国のミサイルの撤去という密約もあったことがその後しられている。
 なお10月27日、ICBM基地の写真撮影で貢献のあったU2が、ソ連製ミサイルで撃墜され、パイロットが死亡するという波乱もあった。
 この決着はどう見ればよいだろうか。カストロは自身の頭越しに、フルシチョフが米国と和解したことに不満を抱いたというが、決着の内容をみると、米国のキューバ侵攻自制の約束を取り付けたのは、キューバの革命政権に取り、必ずしも悪い結果ではなかった。事実、このあと、アメリカによる経済制裁を受けつつも、キューバ革命政権はアメリカの喉元で存続を続けることになった。
 ケネディにとっては、キューバ侵攻は前政権のアイゼンハワー政権末期に決定された置き土産。その継承に熱心でなかったとしても不思議ではない。そしてこの危機解消の結果、米ソの間にはホットラインが結ばれた。米ソの緊張緩和への期待も高まった。
 そのケネディが暗殺されるのは、キューバ危機からほぼ1年後の1963年11月22日のことである。


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福光 寛  中国経済思想摘記 main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp