かけ間違えたボタン(その三)
アメリカと日本が戦争となる遠因は中国大陸における利権の奪い合いにあるのではないかという見解の記事の3回目です。
日中十五年戦争
日本政府としては、満州での利権獲得の延長と考えている満州事変、北支事変は、中国史では日本が中国の地を占領している戦争状態とみなして日中十五年戦争と理解されています。日本側が戦争という言葉を使わず、事変と呼んでいるのとは対照的です。
この時点で、イギリスやアメリカは既に日本との関係を友好/中立ではなく、敵対関係に変更しています。
日英同盟は既に1923年に失効しており、イギリスは日本との同盟は不要と判断しています。アメリカは日本の満州への野心を快く思っておらず、第二次世界大戦への最後通牒と言われるハルノートでも、日本は満州での権益を放棄すべきと訴えています。
そして、アメリカとイギリスは中華民国を同盟国とみなし始めます。太平洋戦争の勃発する前からアメリカは中華民国に対する軍事支援を始めています。これは、日本に対する敵対行動であるとともに、日本を追い落とした後の中国での利権を確保するための布石であるとも言えます。
日本は国際社会のこのような仕打ちに対して、国際連盟脱退という手に出ます。松岡洋右のこの判断は、国際協調の枠組みから離れ、日本の孤立化に向かう悪手であると思いますが、しかしこれは日本国の国益を考慮した上での、国としての判断であることは間違いありません。
満州の権益を独り占めにするな。我々にも分前をよこせという本音を、アメリカとイギリスは形としては中華民国に満州を返せという言い方で行うわけです。それに対して、日本はNOと宣言しました。この権益は、日露戦争以来、先達が営々として築いてきたものである。我々はこれを受け継いで守っていかなくてはならない。これは、国民の総意であったでしょう。
そして、この考えを国際的に主張するためには、国際連盟の脱退もやむを得ず。その様な判断であったのでしょう。
その後、日本は中国大陸での戦線を際限なく拡大してゆきます。当初満州、中国東北地方のみであった占領地を、北京、上海と段々と北方から南方に、沿海地方から内陸地方にと拡げてゆきます。
その一方で、イギリスとアメリカは、中華民国側に立つことを明確にさせてゆきます。アメリカと日本の利害は中国での利権をめぐって、正面から対立してゆくようになります。
この時点で、アメリカと日本の関係は、すでに破局の直前と言えるでしょう。
ルーズベルト大統領
1941年、太平洋戦争勃発の年、この時期のアメリカ大統領はルーズベルトでした。この大統領の家系は、中国での商売に関する利権に大きく関わっていたと言われています。
ルーズベルトの母方の家であるデラノ家は、中国貿易によって大きな財産を築いています。そして、ルーズベルト政権は中国の南方に根拠を持つ蒋介石政権と強い関係を持っています。宋美齡がアメリカでのロビー活動に成功しているのも、この中華民国側からの働きかけと合わせて、アメリカ側にもそれに対応する中国での利権を拡大したいと望む勢力があったことが大きな理由になっています。そして、ルーズベルトはその様な中国の利権に関して中心的な役割を持っている一族に属しているのです。
日本の真珠湾攻撃の情報を聞いて、イギリスのチャーチルと、中華民国の蒋介石は、これでアメリカの参戦を期待できる。この戦争は勝ちだと喜んだそうです。それまで、モンロー主義の政策によって海外派兵を積極的に出来なかったアメリカが、この日本軍の挙により、アメリカの世論を味方につけ、ヨーロッパ大陸と、東アジアに対する派兵が実現すると喜んだということです。
ルーズベルト大統領は、必ずしも私欲によってアメリカの政治を左右したわけではないでしょう。しかし、アメリカには一定の中国での利権拡大を望み、日本勢力の中国での勢力拡大を快く思わない人たちがいたことは否めません。宋美齢の遊説はこのような人達と協力して行われていたでしょう。そして、大きな成果を収めていた。そして、この時代の大統領ルーズベルトが、それらの勢力に非常に近いところにいたということは、日本にとっては不運とも言え、同時に必然でもあるとも言えると思います。これは、自らが招いた結果であると。
太平洋戦争の行方
第二次世界大戦、太平洋戦争においては、中華民国は連合国側について戦います。日本は枢軸国側になり、ドイツ、イタリアと同盟を組みますが、実質的な軍事協力は何も得られないまま、戦争が進みます。
一方,中華民国はイギリス、アメリカと同盟を組み、実際の軍事協力を様々な形で得ています。カイロ会談でイギリス、アメリカとの軍事的パートナーとして遇されていること、イギリスによりインドから雲南に向けての補給作戦が実施されていること。アメリカの空軍が中国に戦闘機を上陸ささせ、中華民国軍の支援を行っていることなどです。
アメリカは、中国における利権を中華民国を援助するという形で確保し、反対勢力である日本を追い落とそうと考えているわけです。そして、これが日本が中国での利権を独り占めしようと画策した結果なのです。
ボタンの掛け違いは何処にあったのか
太平洋戦争が日本の敗北で終わり、中国に中華民国の国旗が高々と上がったその時点で、アメリカはこれで中国の利権は我が物になると喜んだでしょう。しかし、その期待は共産中国の台頭により打ち砕かれます。これは、アメリカの新たな挫折の物語ですので、ここでは触れません。
この文章では、最後にこのボタンの掛け違いはどこにあったのかということを改めて検証したいと思います。一体、日本の国はいつの時点で、このように中国での利権を我が物にしようとし始めたのかということです。
一つ考えられるのは、日露戦争の後の戦後処理です。日本はポーツマス条約締結に小村寿太郎を送り、ロシア側の交渉団と終戦の条約締結を交渉させます。
この時の日本の世論は、中国東北地方での辛勝、日本海海戦の大勝利の実績を以て欣喜雀躍し、ロシアから多額の戦利品・賠償金と、満州での利権を獲得できると期待していたそうです。しかし、小村寿太郎の使節団は、そのような成果を得ることは出来ず、満州での鉄道の利権を得ること程度しかできなかった。
小村寿太郎は日本に帰国した時点で、そのような結果になったことに対して、国賊と罵られたそうです。客観的には、小村寿太郎の交渉能力はとても秀でていたもので、この結果は妥当なものでした。しかし、国民はそれに対して満足できなかった。
これは、誰か特定の日本の政治家の失策というよりは、日本国民の国際政治のリアリティーに対する認識の欠如、この様に海外に自国の勢力を拡大していった場合の反作用に対する自覚が足りなかった。その様なことではなかったかと考えています。そして、一つ一つ積み重ねられていく植民地は、帝国主義国家の拡大を示している。日本は世界の列強に伍している大国になったのだと、自己肥大化していった。
もう一つは、僕が前から気になっている設問、後藤新平は台湾と満州で国土開発のために、鉄道の開発を行っているが、結果が全く異なっている。彼は、台湾と満州で同じことをやったのか、それとも違っていたのかという問題です。
満州鉄道を建設し、国土開発の一助としたい。後藤新平のこの考え自体は、台湾でも満州でも同じだったのではないかと僕は考えています。
異なっていたのは、満州の地が、日本の他にアメリカ、ソビエトの利権が錯綜した土地であったということ。そして、それを理由に中華民国がアメリカ、ソビエトと友好関係を結び、日本に対する反対運動を始めたこと。この様にして、国益に対して良かれと考えた鉄道建設が、外交的には裏目に出てしまう。その様なとても複雑な関係に発展していってしまう。その様なことなのではないかと考えています。
ボタンのかけ違いはどこにあったのか。
今僕の考えていることは、日清・日露戦争で慢心した日本の国民意識が、次第に中国の土地での利権を求める様になってゆき、そのための様々な国策がアメリカを次第に日本に対立する方向に追いやっていったからだと、その様に考えています。
