見出し画像

同じ「言語科目」でも、要求される能力はまるで違う

高校では、現代文、古文、漢文、英語を、いずれも「文章を読む科目」として勉強する。

しかし、実際にそれぞれの科目で要求されている能力はかなり違う。

現代文が得意だから英語も読めるとは限らない。英語の構文解析が得意でも、古文の物語が理解できるとは限らない。

同じ言語を扱っているのに、攻略法は驚くほど異なるのである。

そして、もう一つ重要なのは、受験で点を取るための読み方と、その言語や作品を本当に理解するための読み方も同じではない、ということだ。

現代文は、高校の外側にある教養を読む

現代文、特に評論文では、日本語の文法そのものが大きな障害になることは少ない。

文章は読める。単語の意味もだいたい分かる。それでも、筆者が何を言っているのか分からない。

これは、文章の背景にある概念を知らないからである。

高校の評論文では、哲学、言語学、社会学、心理学、文化人類学、芸術論、科学史などが頻繁に扱われる。

ところが、これらの多くは高校の独立した教科にはなっていない。

つまり現代文では、しばしば「高校の科目からあふれた知識」を読まされる。

言葉は現実をそのまま写すものなのか。
個人と社会はどのような関係にあるのか。
近代化によって人間の認識はどう変わったのか。

こうした問いについて、一度でも考えたことがある人には、評論文の議論が見えやすい。反対に、背景となる思想や概念に触れた経験がないと、一文ずつ追えても文章全体の地図が作れない。

したがって、受験現代文で求められるのは、論理関係を追い、対比や言い換えを見抜き、筆者の主張を本文から再構成する力である。

しかし、さらに深めようとするなら、問題集を解き続けるだけでは足りない。

哲学書や社会科学の入門書を読む。芸術や宗教について考える。自分とは異なる世界観に触れる。

現代文の先にあるのは、読解テクニックではなく、世界を見るための概念を増やすことなのである。

古文は、古い日本語よりも古い社会を読む

古文では、単語や助動詞、敬語などの知識が必要になる。

しかし、それだけで文章が分かるわけではない。

古文の難しさは、言葉が古いこと以上に、そこに描かれている社会が現代とは違うことにある。

身分によって行動が制約される。
男女の関係には通い婚の慣習がある。
和歌が手紙や会話の役割を果たす。
出家は信仰だけでなく、失意や政治的撤退の意味を持つ。

月、桜、雁、衣、香りなどが、単なる物ではなく、共有された象徴として使われる。

こうした古文常識を知らなければ、現代語訳はできても、登場人物がなぜ喜び、なぜ悲しみ、なぜその行動を取ったのか理解できない。

受験古文で求められるのは、語彙と文法を足場にしながら、敬語から人物関係を特定し、省略された主語を補い、物語の流れを復元する力である。

ただし、その復元を支えるのは構造解析だけではない。平安・鎌倉時代の生活、身分、恋愛、宗教、儀礼などについての背景知識である。

そして古文をさらに深めるなら、古典作品を現代の常識だけで裁かないことが必要になる。

当時の制度や価値観を知り、その社会の中で人物の行動を理解する。歴史、民俗、宗教、美術などへ横に広がっていく。

古文の先にあるのは、昔の文章を訳す技術ではなく、過去の日本人が生きていた世界へ入っていくことだ。

漢文は、構造を復元する訓練である

漢文は、英語とよく似たところがある。

どちらも、まず文の構造を取らなければならない。

どこが述語なのか。主語と目的語は何か。否定や疑問はどこにかかるのか。どの語をどの順序で読むのか。

漢文では、返り点、再読文字、句形などを使い、漢語で書かれた文を日本語の語順へ組み替えていく。

その意味では、高校漢文は非常に純度の高い構造解析の訓練になっている。

現代文のように幅広い思想的教養を直接問うわけでもなく、古文のように生活習慣の細部を大量に知らなければ一文も読めないわけでもない。一定数の句法を覚え、主語と述語の関係を整理すれば、比較的短期間で点数につながりやすい。

ただし、これは漢文を本当に理解したこととは別である。

高校で読む『論語』『孟子』『史記』などは、何百年、何千年にもわたって読み継がれてきた古典である。一文の意味について、古来さまざまな解釈が積み重ねられている。

しかも、高校で習う漢文は、現在も日々新しい文章が書かれている生きた言語ではない。受験の範囲では、ある程度、定型的な構造理解の訓練として扱うことができる。

しかし、その思想や歴史を本当に理解したいなら、書き下し文と現代語訳だけでは足りない。

注釈書を読む必要がある。

誰が、どの時代に、どのような政治的・思想的背景で書いたのか。ある語が当時どのような意味で使われたのか。後世の学者たちはどう解釈してきたのか。

漢文の先にあるのは、新しい表現を身につけることではなく、蓄積された注釈の世界へ降りていくことなのである。

英語は、構造から入る生きた言語である

受験英語では、まず構造を読む能力が要求される。

動詞はどれか。主語はどこまでか。目的語や補語は何か。関係詞節はどの名詞を修飾するのか。

カンマの有無によって、情報が名詞を限定しているのか、単なる補足なのか。

英文は、語順と記号によって構造をかなり明示する言語である。そのため、細かな文法事項をばらばらに暗記するより、動詞を中心に文の骨格を取るほうが重要になる。

動詞が決まれば、その後に置ける要素もある程度決まる。

目的語を取るのか。人と物の二つを取るのか。目的語の後ろに補語を置くのか。特定の前置詞と結び付くのか。

英語では、動詞が文の設計図になる。

この点で、受験英語は漢文に似ている。どちらもまず構造を復元し、文の意味を組み立てる科目である。

しかし、英語と漢文の大きな違いは、英語が現在も変化し続けている生きた言語だということだ。

受験では構文解析ができれば、ある程度まで英文を読める。しかし、現実の英語は文法構造だけでは理解できない。

ユーモア、皮肉、婉曲表現、政治的含意、階級差、世代差、地域差。映画や音楽、宗教、歴史、スポーツ、インターネット文化。

同じ単語でも、誰が、どの場面で、どのように使うかによって意味は変わる。

したがって英語は、受験では構造から入るが、その先では文化や社会へ向かわなければならない。

構造だけを学んでも、英文を解体することはできる。しかし、生きた言葉として受け取ることはできない。

英語をさらに深めるとは、英語圏の人々がどのような前提を共有し、何を面白がり、何を失礼だと感じ、何を言外に伝えようとするのかを学ぶことでもある。

同じ言語科目でも、入口と出口が違う

四つの科目を並べてみると、受験で要求される能力は次のように整理できる。

現代文では、概念と論理を追う。
古文では、古文常識と時代背景から人物や状況を復元する。
漢文では、句法を使って文の構造を組み直す。
英語では、動詞と語順を中心に英文の骨格をつかむ。

ところが、さらに深める方向はそれぞれ違う。

現代文は、哲学や社会科学などの教養へ広がる。
古文は、日本の歴史や文化、宗教、生活世界へ入っていく。
漢文は、古典研究と注釈の蓄積へ降りていく。
英語は、現代の文化、社会、歴史、実際のコミュニケーションへ広がっていく。

同じ「文章を読む科目」であっても、入口も出口も違うのである。

「言語が苦手」を分解する

だから、「自分は言語科目が苦手だ」という言い方は、少し大ざっぱすぎる。

論理的な文章を読むのが苦手なのか。
背景知識のない世界を想像するのが苦手なのか。
文の構造を解析するのが苦手なのか。
単語や文法は分かっても、文化的な含意がつかめないのか。

必要な能力を分解すれば、対策も変わる。

現代文が苦手だからといって、英語も苦手になるとは限らない。古文が苦手でも、漢文では高得点を取れるかもしれない。

高校では、これらが「国語」や「語学」という大きな箱にまとめられている。しかし実際には、別々の筋肉を使う競技に近い。

受験勉強で重要なのは、それぞれの科目が何を要求しているかを知ることだ。

そして受験の先では、その科目を攻略法だけで終わらせず、その言語が開いている世界へ進むことだと思う。

言語を読むとは、文字列を処理することではない。

あるときは思想を読み、あるときは失われた生活を読み、あるときは文の構造を読み、あるときは今を生きる人々の文化を読む。

同じ言語科目であっても、私たちが読んでいるものは、実はまったく違うのである。

いいなと思ったら応援しよう!