主体性は「応える力」でもある〜能動と受動のあいだで考える保育における主体性〜
以前、私は「主体性はどこから生まれるのか」という記事で、「主体性は豊かな受動から生まれる」と書いた。
受動を、主体性が立ち上がる前の段階として捉えていた。
味わう時間、心が動く体験、発酵していく「間」。
そのプロセスを経て、ようやく主体性が外側へと表現されていく。そういう順番として。
それは当時の自分なりの整理だったし、今もその視点を否定するつもりはなく大切にしている。
ただ、最近はもう少し違うかたちでも「主体性」を捉えるようになった。
それは、主体性には「両義性」があるということ。
ひとつは、能動を意味する主体性。自分の意志で考え、判断し、「やりたい」を選び取って動いていく力。
これは従来からよく語られてきた主体性のかたちだ。
もうひとつは、受動に開かれた主体性。意志や意図から始まるのではなく、生活や遊びのなかの偶発的なできごとに触れて訪れたひらめきや感動、自ずから湧いてくるような言葉や行動。
その瞬間、子どもは「こうしよう」と意図して動いてはいないように見える。
でも「環境のなにか」と出会い、自分の内側で何かが動き、それに乗っていく。これは意志による行動ではないけれど、完全な無自覚でもない。むしろ「誘われて、応える」という主体のあり方とも言えるかもしれない。
これは主体性の発揮への準備段階というより、すでに主体が環境と関わっている過程そのものだと考えるようになった。
それでも、そこには確かに「その人らしさ」が立ち上がっている。
受動は能動の準備段階ではなく、それ自体がもうひとつの主体性のかたちなのだ。
ある日、園庭で0歳児と保育者が過ごしていた。
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