【保育】保育が現実に負ける瞬間
【保育】保育が現実に負ける瞬間
保育はよく現実にまけて本来の目指す方向とは違う方に向かってしまうことが多々あります。
というよりも、日本の社会は理念やクリティカルシンキングを軽視・冷笑する傾向が強いので、保育以前に多々起こっているというのが正解かもしれません。
では、保育が現実に負けるというのはどういう状態でしょうか。
本当によくあるところが、「子供が片付けられないので遊具を制限する」というものです。
よほど自由保育を園全体で学んでいる保育施設以外、まずこう考えてしまうクラスが多くの園で存在しています。
・遊具の数そのものを減らしてしまう
・遊具の種類を制限する
・遊具を使うのにいちいち保育者の許可がいる
こうした保育実践になってしまっています。
そこの保育者たちの考えるその大元の根拠が「片付けられないから」です。
◆発達段階の視点を持つ
さて、ここで視点を整備して視野を広くとってみましょう。
まず、考えるべきことは、「遊びと片付けどちらが重要か?」という点です。
つぎに考えるのは、遊びに適した発達段階と片付けに適正な発達段階はどういうものでどの程度かという点です。
こうして明示してみればわかりやすいですが、保育において重要なのは遊びの方です。
しかし、現実の保育者たちは「片付け」に思考が引っ張られてしまっています。
これはある意味では人間の心のクセと言えます。
「きっちりすべきだ」というものが定められると、「きっちり」したくなってしまいます。
ルールや規範を作れば、それに当てはめたくなってしまいます。
それゆえに、本来の重要なものと副次的なものの順位が入れ替わってしまいます。
保育というよりも、子供の発達において遊びこそが重要で、片付けはそれに付随しているものにすぎません。
「遊びも大切だけど、片付けも大切でしょ?」と思う人もいるでしょう。
そこで、それぞれに適した発達段階を考えてみましょう。
遊びの発達段階は、遊びそれぞれに違います。保育の基礎としてその子供たちに適した、あるいはその子個人に適した遊びを設定することは当然の専門性です。
では、片付けの適正な発達段階とはどのくらいになるでしょうか?
大人が指示、誘導してやらせればどの年齢・段階でもできますが、発達として考える以上、自立性と主体性に基づいて適正な段階のことです。
つまり、片付けの意味合いを理解できて、それを意識的、能動的、自主的に行える発達段階のことです。
それをおしなべて求められる段階はおそらく4歳くらいからがスタート地点と考えるのが妥当ではないでしょうか。
するとそれ以前の年齢は、できることを求める段階ではなく、そこに向かった発達を考える基礎づくりの段階であることがわかります。
そこで必要な保育者の取り組みとは、例えば
・常に整然と整った生活環境の維持に務める
・必要に応じて保育者が片付けをする姿を子供たちに環境的に見せていく
・保育者が片付けるときにムリのない範囲、遊びの邪魔をしない範囲で子供にも手伝ってもらう
・子供が一部でも片付けをする姿を肯定的に見守っていく
・食事時や通路の確保など、子供にもわかる因果関係の中でモノの整理を求める
ざっとですがこうしたことが基礎として考えられるでしょう。
しかし、多くの保育者が「片付け」に気を取られそれに躍起になってしまうのは、子供の発達や生活習慣の獲得といったものではなく、「しつけ」的な「正しいことだからやりなさい」といった非専門的なスタンスであることが多いです。
なので僕が保育研修するとき、「片付けは重要じゃないことが重要です」とそうしたバイアスから脱せるように気づきを持ってもらっています。
◆保育の根幹を台無しにするほどの現実に負ける現実
さて、今回のテーマである「保育が現実に負ける」という問題に戻しましょう。
いまは片付けで紹介しましたが、他にもたくさんあります。
たとえばこうしたケース。
そこの施設では子供と保育者が信頼関係を築いたり、子供に安心して過ごしてもらうという視点が抜け落ち、「生活を回す」ことが重視されてしまっています。
ゆえに子供たちは、保育室に安心できず、保育者を信頼せず、遊びの設定も不十分であるので、しょっちゅう部屋から出ようとします。
保育者はそれを見て、「子供が逃げ出す」という理由で、子供が出られない柵やドアのロックを設置することにしました。
さて、この状態は保育の根幹が崩壊するほどの「現実に負ける」状態です。
本来すべきは、子供と保育者の間に信頼関係を築き、保育施設・保育室を安全で安心なところであると子供たちに理解させられるよう設定や対応を模索すべきところです。
しかし、無自覚の「子供ってそういうものでしょ」という子供への低い見方や、自分たちの保育を検証するという専門的な視点が欠けていると、その表面的な「子供が逃げ出す」という事象だけ見て、物理で制限するという方向に行ってしまっています。
ときには、個々の子供の特性などから、物理的に制限することが必要な場合があるのは事実です。
しかし、最初からすべきことをしない、あるいは子供を「できないもの」と見なすことから、子供の制限を企図してしまうのはまったく次元の違う行いです。
ここから言えることは、多くの人は無意識・無自覚に「子供はできないものだよね」という子供を低く見る意識を持っています。(これは悪意・善意の問題ではありません。善意があっても、悪意がなくても起こっています)
その状態はつまり子供への不信です。
自分に不信感を持っている人を、本当に信頼できる人はいません。
専門性を持った保育者は、その視点を乗り越えています。
「その子ができるほうに成長することはわかっている。そのためにはどういう援助が必要だろう?」という思考になります。
そういう保育者は、現実に負けない保育をすることができます。
◆おまけ
その領域に到達している保育者は、相手が赤ちゃんであっても普通に話しかけています。
例えば、赤ちゃんが泣いていると多くの大人は、すぐ泣き止ませようとします。
子供を低く見ない視点に到達している人は、「どうして泣いているの?」と自然に言葉を発することができます。
なぜなら、その子が泣いているのを一種の「言葉」として理解しているからです。
相手を人として対応しています。
もちろん、まだ言語獲得前の子供は言葉によってその後のやり取りができるわけではありませんが、子供からもわかることがあります。
それは「この人は自分のことをわかろうとしてくれている」ということです。
泣くのにはもちろん様々な理由があります。
それをいきなりあやしたりすることで「泣き止ませよう」とするのは、当人からすれば一種のごまかしになってしまいます。
これは大人である皆さんの身に置き換えて考えればわかりやすいでしょう。
しかし、「どうして泣いているの?」と聞いてくる人は、ごまかしをしようとしているのではなく、自分の主張を汲もうとしている人、自分を信じてくれている人とわかります。
これが「信頼関係」の本質にある「子供を信じる」というスタンスです。
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保育士おとーちゃんこと須賀義一です。
保育や子育てについて考えたことを書いています。