『箱の中の羊』映画感想文・私が見た羊とは…
是枝裕和監督の注目作、初日に観てきました。
観終わってしばらくは、テーマが絞りきれていないような…めでたしめでたしでいいのか…という戸惑いがありました。
しかし後からよく考えてみると、これはもしかして親、ひいては人間のエゴについて描いた作品なのではないかと思うようになりました。
そうでないと自分としてどこか納得できないんですよね…。

あらすじ
少し先の未来。建築家の甲本音々とその夫で工務店の2代目社長を務める健介は、2年前に亡くした息子・翔の姿をしたヒューマノイドを迎え入れることになる。ヒューマノイドが到着した日、翔と同じ笑顔と声をした彼を音々が喜んで迎える一方で、健介は戸惑いを隠しきれず硬い表情を浮かべる。家族の時間は少しずつ動き出すが、やがて予期せぬ事態が起こり、夫婦が息子の死に対してそれぞれ抱えていた想いがあらわになっていく。そんな中、ヒューマノイドの翔はひそかにヒューマノイドの仲間たちとつながりはじめる。
監督 : 是枝裕和
2026年製作/125分/G/日本
配給:東宝、ギャガ
劇場公開日:2026年5月29日
感想(ネタバレ含む)
本作は、一見すると「亡き息子の姿をしたヒューマノイドを迎え入れた夫婦の、喪失と再生を描いた(感動的な)家族ドラマ」のように映ります。
しかし、なんだか「それでいいのか?」とモヤモヤしたのです。そして、その美しい表面の下には、人間のエゴイズムと、それを管理・消費するディストピア社会の構造があるのではないか、と思い至りました。
これはもしかすると、背筋が寒くなるような社会批評映画なのではないか…。
タイトルの由来である「星の王子さま」の『箱の中の羊』というエピソードは、本作のテーマを鮮やかに象徴しています。主人公の甲本夫妻(綾瀬はるか、大悟)は、ヒューマノイドの翔という「箱」の中に、それぞれが都合よく見たい「息子の幻影(羊)」を投影していました。
妻の音々は、自分の不注意(急に来た母親の相手をしていたこと)で息子を死なせてしまったという耐え難い罪悪感から逃れるため、怒りを母親(余貴美子)にぶつけ、他責にすることで自分を防衛していました。
そんな彼女にとってヒューマノイドは、二度と自分を傷つけず、自分の理想の息子を演じてくれる「完璧にコントロール可能な癒やしの道具」だったのです。
一方で、パチンコに行っていたせいで息子を救えなかったという決定的な自責の念を抱える夫の健介は、最初は「おじさん」と呼ばせて距離を置いていたものの、姿形が同じヒューマノイドに次第に情を移していきます。
しかし、情が湧いた彼がヒューマノイドの翔に「犯人を覚えていないか」と詰め寄るシーンは非常に残酷でした。
健介は、目の前の存在を一個の人格として見ているのではなく、自分の過去の罪をしのぐための「復讐の道具・目撃者」として強要していたのです。
二人の親は、それぞれ「愛」という名目を掲げながら、その実態は自分たちの精神的救済のために、子どもを自分の都合の良い枠組みへと押し込めようとする、非常に身勝手なコントロールを行っていました。
物語の後半、修理工(田中泯ら熟練工のいる工務店とは対比的な、システムの側の人間)が、翔の背中からGPSが抜かれているのを見て「知っているかのような顔」を浮かべた瞬間から、映画の不気味さは加速します。
夫婦は、自分たちが葛藤し、自らの意思で選択していると思い込んでいましたが、実はその感情の揺れ動きすらも、ヒューマノイド会社が仕組んだプログラムだったのではないでしょうか。
会社が提供していたのは機械ではなく、「最愛の者を失った親に、もう一度都合の良いお葬式のやり直しを体験させ、未練なく前を向かせる」という、究極のメンタルケア・ビジネスだった可能性があります。
終盤の感動的とも言える翔との別れのシーンは、親が「自分の手で送り出した」と錯覚して満足度を最大化するための、会社側の「ラスト・プログラム」に過ぎなかったと考えられます。
だからこそ、ラストで妻が「私たちは捨てられたのよね」と語ったときの夫婦の顔は、驚くほど晴れやかで清々しかったのです。
彼らは自分たちの未熟さに気づいたわけではなく、「自立させた」というポジションに逃げ込み、エゴを肯定する言い訳を見つけて自己満足したに過ぎません。
まさに、主役でありながら最後まで何も知らされずに踊らされたピエロだった…とすればどうでしょうか。
子どもたちを導く黒ずくめの人物は、大人たちの身勝手なエゴへの報復として、そして子どもたちにとっては支配から解放してくれる導き手(会社の冷徹な回収システムそのもの、あるいは抗えない運命のメタファー)として機能しています。
集まった子どもたちの共通点は、機械か人間かではなく、「大人のエゴや都合によって人生をコントロールされ、居場所を失った存在」という点です。
大人たちが「綺麗に解決した」と自己満足を得て日常に戻っていく陰で、現実の子どもたちは大人たちに絶望し、手を取り合って静かに社会からドロップアウトし、大人のいない新しい世界(森)へと決別を告げていたとすれば恐ろしいことです。
「知らぬは親ばかりなり」という言葉の通り、去っていった本質的な危機にすら気づかない大人の滑稽さと不気味さが、ここに極まります。
ドキュメンタリーのような冷徹さで家族の歪みを切り取ってきた是枝監督が、その手腕を未来の管理社会へとスライドさせた、恐るべき『是枝流ディストピアSF』の傑作ではないかと思いました。
深読みしすぎのような気もしますが、これも映画という「箱」の中に私が見たい「羊」なのでしょう。
それでは、また次の映画で!
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