希望について
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は、精神科医だった著者自身の強制収容所での体験をもとに、極限状況における人間の姿を記した本です。
単なる収容所の記録ではなく、人はどのようなときに生きる力を失い、どのようなときに持ち続けられるのかを考察したところに、この本の価値があります。
この本の中に、こういう記述があります。1944年のクリスマスから翌年の新年にかけて、強制収容所の死者数が極端に増えた時期がありました。それは過酷な労働条件でも、季候の変化でも、伝染病の蔓延でも説明のつかない増加だったといいます。
医長の見立てはこうです。そのとき収容所内では、「クリスマスには家に帰れる」という根拠のない期待が広がっていました。それがいつしか被収容者たちにとっての希望へと変わっていったのです。
でもクリスマスが来ても、彼らは解放されませんでした。その希望が失われたとき、彼らは生きる力を失ってしまいます。免疫力は急速に低下し、発疹チフスにやられ、次々と命を落としていったのです。
希望は人を支えるはずのものですが、ここで起きたのはその真逆です。希望を持ったことが、結果的に死を招いたのです。「クリスマスには」という希望は、実際にその日が来なかったときに絶望に変わってしまいました。
だとすれば、希望は持たない方が良いのでしょうか。もちろんそうではありません。フランクルが問題にしているのは希望のあり方です。
フランクルはニーチェの言葉を引用して次のように言っています。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
クリスマスに命を落とした人びとに欠けていたのは、この「なぜ」という問いです。彼らは「いつ」解放されるかを待ち続けていましたが、そこには「なぜ」生きるのかという問いがなかったのです。
フランクルはここから、決定的な発想の転換を示します。生きることの意味を、私たちの側から人生に問うてはならない。むしろその問いは、人生の方から私たちに投げかけられているのだと。
ここには二種類の希望があります。
ひとつは、クリスマスに象徴されるような、外部の出来事に依拠した希望。これは自分がコントロールできないところに置かれています。
もうひとつは、いまこの状況で自分が何を問われ、何をなすべきかという、自らが引き受けるものとしての希望。これは状況の良し悪しに左右されません。
希望を捨てよというのではありません。希望の意味を問い直せということなのです。何かが起きることを待つ希望から、何かに応える希望へ。そして応えるべき問いは、抽象的などこかにあるのではなく、いま自分が置かれているこの具体的な状況の中にしかありません。
生きる意味を外から与えられるものと考えるか、自分自身が答えるべき問いとして、この一度きりの具体的な状況の中で引き受けるのか。この違いは、平時にはさほど意識されません。でも人生の困難な状況において、それは生死を分けるほどの違いになります。
何を待つのかではなく、何に応えるのか。そこに、フランクルがいう希望の本質があるのです。
