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風呂場で叫んだ日〜フランクル『夜と霧』〜

「うわーーーーーー!」
気がつけば声を上げている自分がいました。

「ああーーーーーー!!!!」
さらにかぶせて声を上げている自分がいました。

言葉にならない、ストレートで心をぶち抜かれるような感慨と爽快感を得たのです。

私はこのごろ、風呂に入りながら読書をしています。
引っ越した先の家の換気がなかなか優秀で、紙がまったくヘタらないことに気づいたのです。そしてこれがなかなか快適かつ集中できる読書環境ですっかりお気に入り。

そんなわけで、読んでいた本のあるページで、感極まって叫ぶに至ったというのが前述の経緯でした。

読んでいたのは
フランクルの「夜と霧」。

「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル)
ナチス強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルが、自身の体験と観察をもとに、収容所内の人間心理や行動の変化を記録した実存心理学の代表的著作。

強制収容所にまつわる作品は、残酷な光景描写を通してその非人道性を具体的に表現して伝えることが常だと思っていました。
だから、この本を読む前はむごい描写に耐える覚悟をしていたのですが、読み進めていくうちに、論点がまったく違うことに気づきます。

本の中で、フランクルの視点が常に「人とは何か?」という問いとともにあることで、強制収容所が(表現の仕方がとても難しいですが誤解を恐れず言えば)精神病理学の研究を実証するための、ある種の「舞台装置」として機能しているような感覚になり、徐々にフランクル自身が身を挺した「過酷な実験」を語っているのではないかとう印象にすらなってきました。

ここで冒頭で、私が叫んだ箇所についてお話ししたいと思います。

ご存知のとおり、ナチスの強制収容所では人間としてのあらゆる尊厳が損なわれ尽くします。人間として生きる基本のあらゆることが理不尽な形で奪われ尽くした、いつ終わるか分からぬ究極の絶望。

特異な収容所環境は、常に人間から生きることに希望を奪い、感情を
消滅させる

その考えに至るのは容易です。
ところがフランクルはこの考えに異議を唱えました。

以下、著書から抜粋します。

「人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約た条件の産物でしかないというのはほんとうか、すなわり、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と。
そしてとりわけ人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか。」

「(収容所においてもなお人道的な行動をする人が実際にいた事実があった。)人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。」

「収容所の日々は内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノと成りはて『典型的な』被収容者へと焼きなおされる方が身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまづいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するかという決断だ。」

「夜と霧」新版 みすす書房


で、次のこの文章で叫んだわけでした。




「典型的な『非収容者』になるか、あるいは収容所においてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。」


「自分自身が決めることなのだ。」



叫んだときの感覚は、正の感情でも負の感情でもなく、淡々と撃ち抜かれた物理的なショックをともなっていました。あまりにも重たく深い体験による考察の凄みに圧倒されて、しばらく思考停止。

センテンスそのものが斬新かどうかではなく、その言葉が捻り出された背景の壮絶さと圧倒的な言葉の説得力に、内臓が反応したような悶絶感を覚えたのでした。

言葉そのものが、迫り来るような体験。

自分の言葉を尽くしてもその感覚を正確に描写することは難しいのですが

何百冊もの啓発本があったとして、その束が「紙製のボール」だとしたら、フランクルの「夜と霧」の言葉にはボーリング玉の重さといったぐあい。

同時に「真理」という名の真水が頭上に浴びせかけられたような、一瞬で目が覚めるような爽快感と痛みがともないました。
言葉が心の芯まで食って、そのままずっと残っている感じがします。

言葉は言葉でありながら、言葉にとどまらないわけです。


そして、なんといってもどんな状況においても、それを受けてどうするかは自分が決めることという、まごうことなき(きつい)真理。

たとえば

ーとはいえ私はあのときあんな生育環境だったし
ーでも私は感受性が強くて傷つきやすいから
ーだってあんなひどいトラウマがあるのだから
ーオレの幼少期はひどいものだった

いろんな「でも」「だって」があって、人生を拘束することも可能です。
べつにそれでもいい。誰も咎めやしない。というか
実際、そう思わないとやっていられない時もある。

でも、ナチスの強制収容所においてもなお
踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだとしたら

ぐうの音もでない。








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