津原泰水『小説教室』刊行記念小冊子『書くための読書 津原泰水篇』試し読み
この記事は、津原泰水『小説教室 忘れられない小説を書く』(東京創元社)の刊行を記念して作成した小冊子『書くための読書 津原泰水篇』のメイン記事「書くための読書 津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』篇」の冒頭を試し読みとして公開するものです。
津原泰水がいなくなって、私自身は間違いなく、小説を読むことが、書くことが、以前より、ずっとむなしくなりました。 それ自体を愉しめるようになるのは、いったいいつになることでしょう。
書くための読書 津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』篇
西荻窪に店舗を構える「古書モンガ堂」の不定期刊行同人誌「モモイトリ」が、「極めてます! ちょっとだけ極めてます!」という特集を組んだ際、僕は、「書くための読書」というエッセイを書いた。そのタイトルは、吉村昭『私の文学漂流』(新潮文庫)の次の一文から、材をとったものだった。
私は、『雪』という二十二枚の短篇を書き、「学習院文芸」にのせた。それまでの読書は、単に読むだけのものであったが、その時から書くために読むようになったのである。
「書くために読む」という感覚は、小説を継続して書いている人間ならば誰しもが理解できるものなのではないか。逆に、書いたことのない人間、書き手としての自覚が薄い人間には多分一生、実感出来ないものではないかと思う。
その読み方を意識してから、僕はおそらく、普通に小説を読むことが出来なくなった。この一文を作者はどうやって書いたのだろうか。この小説を面白くしている一手はいったいどこにあるのか。そんなことばかり考えてしまう。
それが幸か不幸かはわからないけれど、先のエッセイでは、そんな営みの中で、心奪われた一手を紹介してみた。たとえば、こんな感じで。
「特に根拠はない予感ですか? それともあっての予感?」
「あるわ。だって鋭夫くんが入れと云ってる。あの子、ピンぼけな言動も多いけど、基本的には計算高いと思うの。特に音楽に関しては、凡人にはとても見通せない未来が見えている──というか、聞えている」
「じゃあ僕には聞こえませんね。凡人ですから」
陽介くんは吐息し、むらさきさんは目許に困惑の色を覗かせた。でも、やがて顔をあげた陽介くんの口から発せられたのは、こんな思いがけない科白だった。
「凡人だからこそ、ぼくは天才の判断に身を委ねるべきだ」
──津原泰水『クロニクル・アラウンド・ザ・クロック』河出書房新社
津原泰水さんはとにかく文章のうまい作家で、特に説明文の巧みさは素晴らしい工芸品を目にしたときのような感動を齎してくれる。たとえば、代表作である「蘆屋家の崩壊」における、この一節。
水を吸わせてから碾いた大豆を釜で炊き、布漉ししたものが豆乳。これに苦汁を合わせて固める。そのままなら絹ごし。重しをして水を切れば木綿。豆腐というのはただそれだけの食い物だ。
どうでしょう? 驚異的な鮮やかさだとは思われません?
『クロニクル・アラウンド・ザ・クロック』は伝説的な人気バンド「爛漫」がボーカルの不審死を乗り越え、新たな出発を遂げる長い長い時間を描いた青春ミステリー長篇だ。ここに引いたのは、主要メンバーが抜けてしまった穴を埋める人材として白羽の矢が立ったアイドル歌手の樋口陽介が、一度は断った「爛漫」加入を決断する場面。自分が加入することで「爛漫」の名に傷がついてしまうのではないかと悩んでいた彼が一転、加入を決める根拠がこの一言に集約されている。
こういう説得力ある一言を用意できるところも凄いけれど、このシーンのシンプルさ、「書かなさ」にこそ、是非とも注目して頂きたい。
「爛漫」を長く見守ってきた音楽ライターのむらさきさんの言葉に対する「凡人ですから」には自分の心を決めるような強い思いはまだ籠っていない。だから、「やがて」と示されるいくらかの時間で、陽介くんはこの言葉を噛みしめていたはず。そのあいだの逡巡やその結論を口に出すときの緊張(あるいは緊張感のなさ)をどうしても書きたくなって、実際に書いてしまって、まあ、それはそれで、それなりにドラマティックな場面になるのかもしれないけれど、それをあえてしないことで、読者の中でこのときの陽介くんの仕草や口調を生み出させる仕掛けが、この場面には施されているように思う。
登場人物に大事なセリフを言わせるときにはどうしても大きな演技をつけたくなるのが作者というもの。そういう誘惑に打ち勝ち、無駄な描写を一切しないというのも、実は大変に勇気がいることなのだ。
小説の粋は省略美にあるということを思い知らされるようなこのシーン。津原泰水は、会話文も物凄いのだ。
今回、これと同じことを、『ヒッキーヒッキーシェイク』一冊まるごとを題材にしてやってみたいと思う。
津原さんの小説を読んでいると、僕はところどころで涙ぐんでしまう。ストーリーの展開にいざなわれる涙ももちろんあるけれど、どちらかといえば、その書きぶり、表現の豊かさ、技術の正確さ、そういうものに心を打たれて泣いてしまうのだ。
『ヒッキーヒッキーシェイク』にも、思わず涙ぐんだり、たまらなくわくわくしたり、胸がきゅんとなったりした箇所がものすごくたくさん、あった。そのひとつひとつをとりあげて、何故、自分がその箇所に惹かれたのかを分析・解説していってみたい。
この文章は作家論や創作・技術論というよりは、作者へのラブレターに近いものになってしまうと思うけれど、津原泰水ファンやディープな文学ファン、また、長く文芸創作を続けておられる方には、多少、興味深く読んで頂ける内容も含まれていることと思う。
津原作品を深く楽しむ一助になれば、この上もない光栄だ。
〈各人のコードネームも用意してある〉
〈私は鍵屋でいいよ、クレジットさえしなければ〉
〈ローズマリー。どうだろう?〉
〈女みたいな名前だ〉
〈あとの三人は、パセリとセージとタイム〉
〈調べた。スカボロー・フェアだね。いま聴きはじめた〉
すこし待った。新たな文字が打ち出された。
〈ほんとのところ、何をやりたいの?〉
〈面白いこと〉
〈ローズマリーでいいよ〉 (文庫p.38)
ハッカー中のハッカーとして「ヒッキーズ」にスカウトされるロックスミスが、初めて竺原の求めに応じる場面。この小説はチャットも含めた会話文によって出来ている部分が大きいのだけれど、そのほぼすべてをテキストでのやりとりに終始するロックスミスとの交流の、これがスタートにあたる。
ロックスミスの要求をさらりと無視しながら話を進める〈ローズマリー。どうだろう〉の切り出し方には竺原のキャラクターが宿る。ロックスミスもそこではとどまらず、会話を続けていく。それが、その先の「少し待った。新たな文字が打ち出された。」でわかる。スカボロー・フェアが流れて、それを聞きながらロックスミスは何かを感じて、整理する。そしてローズマリーを受け入れる。
作者はここで、ロックスミスを印象的に描写するとともに、この特異なキャラクターを伝えるためのツールについて、読者にむけて、意識の共有を図っている。
メッセージが示されるまでの「間」を描写することでロックスミスというキャラクターが描かれていくのだという、その様式のスタートがこの場面にはあり、読者はわずかな地の文によって、それを受け入れることができるのである。
なお、次のセクションでは、芹香が同様の申し出を受けている。
「竺原からのメールはいつも散漫で、情報の欠落が多い。やむなく検索を始めた。」という芹香の雑感からは、竺原流のアプローチに対する摩擦差が如実に現れているように思う。つまり、直接顔を合わせた経験を持つ芹香よりも、文字のやり取りだけの、しかも初接触であるロックスミスの方が、よりスムーズに竺原のアクションを受け止めることが出来ていることがここで強調されるのだ。
読書会の中でも本作の場面転換の激しさと視点の移動は話題になった。読みづらさを感じる要因であるとも指摘された。
しかし、そうした散漫に思える配置にもひとつひとつに意味があるのだと僕は思う。
たとえばこのシーン、竺原がヒッキーズたちにプロジェクトを持ちかける順序において、ロックスミスの次に芹香が置かれるのは(そしてそれがわずか数行で示されるのは)、ロックスミスから一番遠い属性にある芹香を通して竺原とロックスミスの属性の近さを際立たせるためなのではないか。
この短い場面は、クライマックスで聖司が竺原とロックスミスを「そっくり」だと感じる場面に繋がり、さらにラストシーンでロックスミスが竺原に手向ける「私は奴が嫌いだが、間違っていると云った覚えはない」というセリフにも繋がってくる。
つまり、初手から既に、竺原とロックスミスはしっかりと響きあっている。それを示すために芹香はここで、マカロニグラタンを食べなければならないのである。
「温めますか」という初老の店員の質問に、洋佑は黙ってかぶりを振る。 (文庫p.39)
「温めますか」
と尋ねてきた女性店員の顔を、聖司は思わず見つめ返した。 (文庫p.42)
「温める?」と女店員が問う。 (文庫p.45)
散漫に思われてしまう場面転換の代表的なところかもしれないが、その散漫さを支える「温めますか」の美しい緻密さに、僕はうっとりとする。
最初の「温めますか」を導くのは、先に触れた芹香が竺原からのメールを受け取る場面に登場する冷凍マカロニグラタンだ。そこから「温め」で繋がっていくヒッキーたち。彼らを繋ぐ裏方たちの会話を通して示される計画。そして聖司の抱える闇の奥へ──「温めますか」は、彼の悪夢にまで、ついてくる。
事故のとき生じて、初めは朧な輝きのようだった脳の不良箇所が、やがて蛹となり、羽化して、今や艶やかな鞘翅をもつ甲虫へと完全変態を果たしている。こいつに対する聖司の想いは複雑だ。儘ならないが、かといって害虫でもないのである。共生している、と感じている。 (文庫p.54)
この小説を読みづらいと感じる人から、その理由として、それぞれの断章が「誰の話なのかわからなくなる」という点が挙げられた。
これはある意味ではもっともな指摘で、ヒッキーズはそれぞれ、酷似している点があるのだ。それはもちろん、あえての施策なのだけれど。
たとえば聖司のこのバグは、洋佑にもあることが示されていく。ただ、その現れ方はかなり違う。それはバグとつきあうことになった年齢の違いかもしれないし、単純な個人差かもわからない。洋佑の場合、まだ本人が気付いていないということもある。周囲の受け止め方も、それによる家族の形作られ方も、二人は異なる。あわせていえば、三人目にして最初の一人が、竺原の物語として控えている。
読み手としては、一行一行をシンプルに目で追っていけば混乱はしないと思う。三者の違いは明白である。けれど、一方で、その混乱を楽しむという手もあると思う。三人はたいへん似ている。たとえば、とても強く家族を愛しているところなど。
そもそも、彼らの境遇はそんなにも特異なものなのだろうか?「儘ならないが害虫でもないバグ」と一緒に生きていかねばならないのは、僕ら読者も同じなのではあるまいか。
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