第1章 奇跡という名の未知
朝、コーヒーを淹れながら、湯気の行方をぼんやり眺めていました。
お湯が豆に触れて、香りがふわりと立ちのぼる。
毎朝のことなのに、この瞬間はいつ見ても少し不思議です。
今日から三回に分けて、「奇跡」について考えてみたいと思います。
奇跡という言葉を辞書で引くと、「自然の法則を超えた出来事」といった説明が出てきます。
つまり、自然の外側で起こる何か、という意味合いです。
でも、ここで少し立ち止まってみたいのです。
自然の「外側」というものは、本当にあるのでしょうか。
たとえば、遠い昔の人にとって、雷は「神の怒り」でした。
日食は、世界の終わりを告げる「凶兆」でした。
真昼の空が突然暗くなるのですから、無理もありません。
きっと大人も子供も、身を寄せ合って震えていたことでしょう。
けれど今の私たちは、雷が電気の現象であることを知っています。
日食が、月と太陽の位置関係で起こることも知っています。
かつて「奇跡」や「神罰」と呼ばれていたものが、今では小学校の理科で習う出来事になりました。
出来事そのものは、何ひとつ変わっていません。
変わったのは、私たちの知識のほうです。
空を飛ぶ機械も、遠く離れた人と顔を見て話す道具も、百年前の人が見たら腰を抜かす光景です。
魔法としか言いようがなかったはずです。
でも、種を明かせば、すべて自然の法則を上手に使っているだけのこと。
法則を破っているのではなく、法則に深く従っているからこそ、飛べるし、話せるのです。
「超自然」という言葉があります。
自然を超えたもの、という意味です。
でも、冷静に考えると、少し不思議な言葉です。
自然というのは本来、存在するものすべてを指す言葉のはずです。
星も、石も、私たちの体も、心の働きも、みんな自然の中にあります。
そのすべてを超えた場所とは、いったいどこなのでしょうか。
言葉としては成り立っていても、指し示す先がどこにもない。
「超自然」とは、そういう種類の言葉なのだと思います。
ある思想家は、こんな意味のことを述べています。
奇跡など、初めからひとつも存在しなかったのだと。
ずいぶん冷たい言葉に聞こえます。
でも、よく味わうと、これはむしろ温かい言葉だと思えてきます。
「奇跡がない」というのは、「不思議がない」という意味ではありません。
この世界に、自然の法則から外れた出来事はひとつもない。
どんなに不可解に見えることも、必ず「何らかの法則」に従って起きている。
ただ、その法則を私たちがまだ知らないだけ。
そう言っているのです。
考えてみれば、自然がすべてを含んでいるのなら、その「外側」という場所は、どこにも残っていません。
外側で起こる出来事も、「あるはずがない」ことになります。
だとすれば、奇跡とは「まだ理解の追いついていない自然」のことになります。
説明できないものを、自然の外側へ放り出してしまえば、そこで考えることは終わります。
けれど、「これも自然の一部で、法則がまだ見えていないだけだ」と受け止めれば、扉はまだ開いたままです。
不思議は、行き止まりではなく、「入り口」になります。
コーヒーの香りがなぜ心を落ち着かせるのか。
その仕組みも、昔の人から見れば魔法のような話です。
世界は、解き明かされるのを待っている不思議で満ちています。
奇跡という言葉を使うたびに、思い出したいことがあります。
それは、驚きの中に立ち尽くすのではなく、その先を知ろうとする姿勢です。
未知は、恐れるものではなく、招かれているもの。
そんなふうに考えると、湯気の向こうの一日も、少し違って見えてきます。
今回画像使わせていただきました。ありがとうございました。
もし良ければこちらも合わせてご覧ください。
次回「奇跡」のシリーズ第二話となります。
富士山麓からあなたへ。
ボンちゃん。
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