第2章 信じる人と、疑う人
テレビのニュースで、「奇跡の生還」という言葉を耳にしました。
湯呑みを片手に、ふと手が止まりました。
奇跡という言葉に、人はどう向き合ってきたのだろうと。
今日は前回に続いて、「奇跡」をめぐる二つのまなざしについて考えます。
ひとつは、「信じる人」のまなざしです。
宗教の世界では、奇跡はしばしば信仰の証とされてきます。
不思議な治癒。
聖なる人の姿が見えたという体験。
こうした出来事は、神の御業として語られ、信じることが勧められます。
その信じる心そのものを、否定するつもりはありません。
信じることで救われる人が、実際にいるからです。
ただ、気になる点がひとつあります。
証拠のないものを信じたいという気持ちは、人間に生まれつき備わった傾向だということです。
その傾向に寄りかかったままだと、理解できないものをただ恐れることにもつながります。
分からないものを、分からないまま丸ごと預けてしまう。
それは安心ではあるのですが、考えることをやめる入り口でもあります。
もうひとつは、「疑う人」のまなざしです。
科学は、奇跡の存在を認めません。
不思議な出来事が報告されると、合理的な説明を探し、「神秘」の要素を取り除こうとします。
この姿勢は、とても大切なものです。
科学の積み重ねが、雷を「神の怒り」から解放してくれました。
病の原因を突き止め、多くの命を救ってもきました。
けれど、こちらにも気になる点があります。
すべての事柄に説明がつくはずだ、という前提です。
今の知識には、限界があります。
かつての常識が、あとの時代にひっくり返った例は、科学の歴史にいくつもあります。
大陸が動くという説も、発表された当時は笑われたそうです。
今では教科書に載っています。
説明のつかない出来事に出会ったとき、「そんなものは存在しない」と切り捨ててしまえば、そこでもやはり、考えることが止まります。
もし奇跡を認めれば、自分の理解の及ばない現象があると認めることになる。
その告白には、勇気が要ります。
古代ギリシャに、「自分は何も知らない」「ということを知っている」、と語った哲学者がいました。
有名な、ソクラテスです。
知らないことを知らないと認めるところから、本当の探究が始まる。
二千年以上前の言葉ですが、今もまったく古びていません。
むしろ、情報があふれる今の時代にこそ、効いてくる言葉だと思います。
分からないことを、分からないと認める。
これは、信じる側にも疑う側にも、同じように求められる謙虚さだと思います。
面白いことに、両者は正反対に見えて、似たところがあります。
どちらも、未知を未知のまま抱えていることに耐えられないのです。
片方は「神の仕業」という箱に入れて安心し、もう片方は「気のせい」という箱に入れて安心する。
箱のかたちは違っても、していることは同じです。
箱に入れた瞬間、その出来事について考えることは終わってしまいます。
分からないものを、分からないまま、そばに置いておく。
急いで箱にしまわず、時々取り出して眺めてみる。
そういう態度が、いちばん誠実なのだと思います。
そして、いちばん「面白い生き方」でもあります。
未知を残しておくことは、世界に余白を残しておくことでもあります。
全部に説明がついてしまった世界は、便利ではあっても、少し窮屈です。
分からないことがあるから、明日も本を開きたくなるし、夜空を見上げたくなるのです。
湯呑みのお茶が、少し冷めていました。
未知とのつきあい方は、お茶の飲み方に似ています。
熱いうちに急いで飲み干す必要はありません。
冷ましながら、ゆっくり味わえば良いのです。
次回「奇跡」のシリーズ最終話となります。
富士山麓からあなたへ。
ボンちゃん。
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