生き上手 死に上手
この本を買ったのは春頃だったか。江ノ島の「天狼院書店」。海沿いのビルの一角で、奥にはカフェスペースがあって小洒落ている。そうそう来ることのない書店に何かしら思い出を作るため、一冊買うことにした。すでに「沈黙」は買っていたし、その次に読むとしたら作者の人となりがわかるエッセイが良いだろうと思っていたから、こんな辺境の店で、遠藤周作「生き上手 死に上手」が表紙を見せて陳列されていたのは奇遇にも感じた。
それを読み終えたが、まぁそんなに良い本ではなかった。ひとつは、これが新聞や雑誌などに掲載されたエッセイの集合であり、内容が重複したり時系列が前後していること。もうひとつは、巻末に記録された所出一覧を確認すると、一編として読まされていた文章が実際は連続ではない数回分を無理やりくっつけたものであったこと。書き直しがあれば別だが、そうではないから妙なまとまりの悪さを感じたのだろう。単行本未収録の文章をコンパイルすることが目的であるなら、余計な編纂などせずに時系列で並べてほしいと俺は思う。
それでも遠藤周作の魅力や、語られていることのおもしろさは変わらないので、そこはなんとなく掴むことができた。 確かめたかったことのひとつはキリスト教との距離感で、それについてはそうあってほしいと願った通り、あくまで哲学の一つとして信仰しているという印象を受けた。言及されている頻度で言えばどちらかというと仏教についての方が多いくらいである。仏教とキリスト教の共通性について語る場面も多い。つまり遠藤周作にとってキリスト教はそれ自体を布教するべきものではなく、生きるための道具として、先人たちの知恵を借りるための媒介に過ぎないのだろう。
そこに重ねて思い出すのは出射義夫のことで、検事でありキリスト教徒であった彼の考え方に俺は共感する部分が多かったから、その秘密が気になる。俺は基本的に反キリスト教を自負しているが、戦中戦後日本における印象は現在と少し違ったのではないか。現在でいうリベラルとか左派的な態度を、当時の知識人はキリスト教のなかに見つけたのではないか。これについてはまだ予測の域を超えないが。
遠藤周作もたびたび語っているのは、「消費社会によって役に立つかどうかだけが価値だと思われていること」への警鐘である。特に、「生き上手 死に上手」が書かれたのはバブル崩壊直前のタイミングであるから、世間的なムードの軽薄さもまた現在より色濃かっただろう。そのとき資本主義によって軽視される価値観、老いや死に対する畏敬とか、科学では説明できない世界の存在感とか、破壊したら二度と蘇らない風景とか。そういったものへの眼差しが遠藤にも出射にも共通しているような気がする。それがキリスト教的倫理へと傾いてしまえば、家族の愛や絆への盲信に落ちるのかもしれないし。ちょっと論点がめんどくさくなったのでここまでにしよう。
それにしても、狐里庵山人(こりあんさんじん)という遠藤周作の別人格についてはこの本だけで掴みかねる部分が多く、それは次の探究にとっておきたい。囲碁やら演劇やらゴルフやら茶道やら、とにかく何にでも手を出す道楽者としての側面。「沈黙」も悪くないが、どうもそっちのあり方にこそ俺は自分を重ねうる気がしている。
