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白塗り…それは人間をやめる儀式|寺山修司と、犬神サアカス團と、ストロベリーソングオーケストラと。

🤍サブカルチャーの出発駅、平成のヴィレヴァン


高校生の頃、半不登校だった私は川越のヴィレヴァンに毎日のように必ず寄っていた。教室にいるよりも、あの雑然とした棚の前に立っている方がよっぽど自分の居場所だと思えたから。

丸尾末広の隣に澁澤龍彦、その近くにライチ光クラブ。かかっているCDは筋肉少女帯や戸川純。
ジャンルもレーベルも無視して並んでいたあの棚にも、「寺山修司」という名前は並んでいた。
元々学校の図書室で名前は見たことがあったので、「ヴィレヴァンに並ぶくらいなんだから、きっと物凄い〝サブカルでアングラ〟な文豪に違いない!」と胸をドキドキさせながら『青少年のための自殺学入門』を手に取った。そこから寺山ワールドにハマったのは一瞬の出来事だった。

もちろん映画も見た。TSUTAYAでレンタルできるものは全て。
寺山の映画といえば最も代表的なのは『田園に死す』。

弱冠15歳の私には、それが何なのか当時は上手いこと説明できなかった。ただ「不気味さ」と「美しい」が、頭の中で同時に鳴っていた。今なら、あの感覚に少しだけ名前をつけられる気がするんだ。


🤍白塗りの正体…人間をやめるための装置


映画『田園に死す』では主人公・シンちゃんをはじめ、ほとんど全ての登場人物が顔を白く塗っている。
これは単なるビジュアルの演出ではない。私には、白塗りが「人間をやめるための装置」に見える。
生活感を消す。個人を消す。素顔のまま生きている「自分」をいったん脇に置いて、境界の向こう側の存在になる。

白塗りとはそういうものなのだと思う。
極端な話、人間をやめる儀式だ。

🤍犬神サアカス團──名前ごと引き継がれた思想


犬神サアカス團(元・犬神サーカス団)というロックバンドがいる。ヴィジュアル系のcdショップにも並んでいたし、V系バンドともよく対バンしているのだがWikipediaによると一応ジャンルとしてはメタルだとかパンクロック…らしい。
バンド名は、『田園に死す』に登場する見世物サーカス一座から取られている。

それだけでも、寺山作品へのリスペクトと距離の近さが伝わってくる。そこには寺山が仕掛けた「日常の外側へ出ていく感覚」まで引き継がれているように、私には思える。




🤍ストロベリーソングオーケストラ──現代版・見世物小屋バンド


犬神サアカス團は土着的で、田園に死すそのもののオマージュ的な白塗りだとすれば、ストロベリーソングオーケストラの白塗りはもっと物語性が強いものだと感じる。

幼少期より江戸川乱歩、寺山修司などの作家に心酔していたボーカル・宮悪戦車が描き出す世界は、まるで現代版の見世物小屋のようだ。
團員(メンバー)は全員顔に白塗りを施し、ロック、現代音楽、即興音楽を劇中歌とした暗黒演劇、市街劇をライブハウス、劇場、時にはゲリラ公演として街頭などでパフォーマンスが行われる事も。
結成当初から一貫して掲げているテーマである『見世物パンク一座』そのものだ。


同じ白塗りでも、何になろうとしているかがそれぞれ違う。でもその根っこには、寺山が作品の中で何度も描いた「境界を越える」という一点が、確かに流れている。

犬神の白塗りを見ていると、土の匂いがする。
一方でストロベリーソングオーケストラから感じるのはもっと都市的で、演劇的な「見世物」だ。


🤍あの本棚から、旅路は続いている


思えば私はずっと〝こっち側〟にいた。
noteでずっと書き続けてきたような「平成原宿カワイイ文化」から寄り道してここに来たわけじゃない。高校生の頃、ヴィレヴァンの棚の前で覚えたあの感覚――禍々しさと美しさが同時に鳴る、あの感覚――が、何も変わる事なくしっかりと今も私の中に息づいている。
白塗りとは、人間をやめる儀式だ。
そして私は今も、その儀式に惹かれ続けているのだ。いつになるか分からないが仕事や金銭面などがひと段落したら、私も演劇をやってみたい。劇団に所属してみたい。それもこれから先の生活の楽しみでもある。


図書室やヴィレヴァンで見たあの光景。
それは黒歴史なんてもんじゃなく、人生そのものの価値観をひっくり返された出会いであった。

だから私は正社員をクビになった時も、「寺山修司ならどうするだろうか?」と常に考えて行動してきた。ゴールデン街に繰り出した事も、風俗嬢になってみたことさえも。寺山なら、常に実験的に生きてみるだろうと思って。
正しい人生から外れた、という意味ではなく、自分がどういう人間なのかを知るためにとりあえずやってみる。そういう意味で寺山を自分の人生の羅針盤にして生きてきた。


あー。やっぱり私の人生は、女子高生時代のヴィレヴァンや図書室から地続きだ。

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