淀川長治の電流
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「POPEYE」2026年9月号に、石原書房のインタビューが掲載されている。特集は「これが僕の仕事。」ということで、これまでの来歴と今の実感、今後の展望などについて話しているのだが、刊行情報と目次が出るまで他のインタビュイー陣について全く知らず、こたけ正義感さんの膝代わりの位置に自分の名前を発見し冷汗をかいている。同時に、『奇奇怪怪明解事典』やイノマーさんの『GAN日記』で大変お世話になった上出遼平さん、高座に何度も足を運んでいる神田伯山さんと同じ誌面の片隅に加えて貰えて嬉しくも思った。

そのインタビューで、仕事と自らとの関係という点で理想的な人物として、淀川長治のことを少し話した。あの「日曜洋画劇場」の、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の淀川長治である、と言っても「あの人ね」となる人はもう少ないと思うが、そのプロフィールについてはここで触れなくてもよいだろう。
とにかく今から約10年前のある日、たまたま淀川長治が話す映像を見て、『淀川長治自伝』を読んで以来、私はこの人物のことを折に触れて考え続けている。
幼少期に逃れがたく映画というものに掴まれて以来、熱狂的な映画ファンとして、映画雑誌の編集者として、独特な美学と文体を持つ批評家として、またテレビの中の解説者として旺盛に活動し、映画とともに約90年(*1)という時間を生き切った淀川長治の、生きることと仕事がほぼ完全に一致している状態。それが淀川個人の運命の数奇さや、その人生が通り抜けることになった明治・大正・昭和・平成のメディアと産業の状況が可能にした極めて例外的なものとは知りながらも、かくありたいものと思わされてしまう圧倒的な輝きがそこにはある。
それに加えて私が心惹かれ続けているのは(文字数の都合上誌面では掘り下げられなかったが)、淀川長治という人の、あの好々爺然としたパブリックイメージに反する異様な迫力である。
『自伝』に書かれている数々のエピソード(*2)からもそれは伺えるが、やはり淀川自らの語り口が採録された対談やインタビューでの発言に、その片鱗が垣間見える。たとえば、美術家・横尾忠則との対談『二人でヨの字』の以下のような部分。
淀川──ぼくはちっとも死ぬことは怖くないの。死ぬなんていうことが、時には嬉しいくらい、好きなのね。死んだらどうなるか。あなたの絵みたいになっちゃうからね。
横尾──そうですよ。
淀川──あなたの絵は死んでからの絵でしょう、だいたいね。
横尾──そうです。ああ、嬉しいですね。死んでから驚かないように、先に見せてあげているわけ。
淀川──そうだよ。見たらわかるもん。
(引用者註:淀川が旧友から「遠くへ行くからカバンを貸してくれ」と頼まれる夢を見た翌日、その人が亡くなったという報せを受けた話に続けて)
淀川──それ、不思議じゃないのね。そういうことは、どこかあなたも電気が入るんだね。ぼくもわりに電気が入るほうなのよ。あなたは電気のかたまりなのよね。入りすぎて。
横尾──入りすぎて。幽霊見たり、UFO見たり、そんなのいっぱいありますよ、ぼく。
淀川──そうでしょう。どんどん入るのよね。やっぱり電気なのよね。
横尾──電気ですね。
淀川──そう。電気入る人と、入らん人とあるのね。ぼく、入るほう。なんか知らないけどそういうところありますね。でも、あんたには、もっともっと深い、因縁でもないけど、執念でもないけど、輪廻でもないけど、なんかおありだね。
これらのやりとりには、映画を中心に広がる諸芸術や森羅万象をとにかく自分の肉眼で見て、見て、見抜いた人間が、ついに生と死、フィクションと現実を隔てているものすらもその眼力で焼き切ってしまい、この世にいながら彼岸の風景をありありと目に浮かべつつものを言っているような恐ろしさがある。対談相手の横尾忠則もそうだが、明らかに映画や絵画という形式を通してこの世ならぬ別世界が見えていて、その「電気」が入る人、行くところまで行った人の言葉づかいという感じがする。
32年もの間続いた「日曜洋画劇場」の映画解説では、その「電気」が毎週、テレビからお茶の間に流されていたのである。
文字に写された口跡からも伺える通り、淀川長治の解説は一代限りの身体の芸であった。語彙は極めてシンプルなのに、そのいかにも目まぐるしい表情と口調とレトリックは、淀川長治がその映画に全身全霊で魅了されていることとその異様な熱狂をこちらに伝えてきて、いつも間にか「どうしてもこの映画を見なければ」という気持ちにさせられる。その映画が持つ固有の電気に、淀川の身体を通じて感電させられてしまうのである(*3)。
映画というものはね、観てるとね、その人物の誰かに絶対自分はなってるわけね。夫になってる、妻になってる、子供になってる。あるいは自分が夫になってて、途中で妻になってる。必ず誰かになっている。だから面白い。赤の他人を観てるわけやないのね。楽しい映画、哀しい映画、みんなそのつもりで観てるわけね。自分がなりきってる。それが面白い。だから映画観てる。乗り移る。乗り移りやすいのね。もっと恐いこと言ったら、たとえば……マリリン・モンロー。スクリーンに出てくるけど死んでるのね。ゲーブル死んでんのね。映画の中では生きてるよ。だけど出てくる人、全部死んでる。それなのにこっち向いて、「俺はな」とか言ってる。不思議、恐いわよ。お化けが集まってるみたいで。
確かに淀川長治は、映画を見る専門家であった。同時に、映画の電気に人を感電させることができる人間でもあった。本来、あるフィクションが持つ電気に人が本当に感電するには、作品そのものに触れるしかないはずである。しかし淀川長治が映画を語るとき、その映画が人の言葉をもってこちらに語りかけているような錯覚を覚える。それは淀川が、映画と自己、フィクションと現実、性別、生と死等々の境界が完全に溶解するところまで、肉眼というものの機能を研ぎ澄まし続けた結果獲得されたものだろう。そのような人物を、「映画評論家」という肩書だけに押し込めておけるものではない。
淀川長治に『愚なる妻』(シュトロハイム、1922年)の登場人物にちなんだ「偽伯爵」というあだ名をつけられてそれを「大変誇りに思っていた」という蓮實重彦(*4)、シネフィルとしても知られる小説家の金井美恵子は、淀川長治の追悼対談で懐かしげにこう言い交わしている。
蓮實 僕はやはり映画評論家ですが、あの方はそんな分類には属さないんです。映画そのものなんですよ。
金井 ほーんとに。御自分では映画を作ったりしないのに、映画そのもの、なんですね。一度だけ、ヒッチコックについての座談会でお目にかかったことがあって、これはミーハー的にソワソワと出かけていったんですけど、なんていうかね、つやつやした白髪で、こう、ちょこんとホテルの大きなソファに座っていて、「映画の妖精」というのがいるとしたら、それを今見てるわけだなあって、そういう印象でしたねえ。
この規格外の賛辞が誇張でなくなるような「評論家」は空前絶後、淀川長治ただ一人だろう。
リアルタイムで触れていた人の中にはもちろん、様々な媒体で淀川の映像が見られる今、その電流はとどまるところを知らず、その死後30年近くを経てもなお日本中を駆け巡っているのではないかと思われる。憧れることすらおこがましいようだが、あるフィクションの形式の流通に携わる人間としてはやはり最高の理想である。
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(*1)夏目漱石が『それから』を書いた1909年に生まれ、ジャン・レノが出ていた『GODZILLA』が公開された1998年、「日曜洋画劇場」の解説(ブルース・ウィリスの『ラストマン・スタンディング』)を収録した翌日に89歳で没した。
(*2)満月の夜は庭に出て全裸で走り回るなど、「!?」となる逸話の宝庫でもあり一人の人間の数奇な運命の記録としても素晴らしく面白いのでぜひともご一読を。
(*3)とはいえ仕事なので本当は気に入らない作品も取り上げていたらしく、そこにも凄みを感じる。
(*4)参照:新潮 立ち読み:2016年7月号 第29回三島由紀夫賞【蓮實重彦・受賞記念インタビュー】小説が向こうからやってくるに至ったいくつかのきっかけ
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