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シェアハウス・ロック(or日録)2603中旬投稿分

統一教会問題は社会の問題なのか6(0311)

 統一教会への解散命令を宗教弾圧だとおっしゃる方々がおられる。「日本はいつ共産主義国家になったのか」という論調すらある。こういうことをおっしゃる方は、そもそも国家自体が抑圧装置であることを認めていないような気がする。昔々の東映時代劇みたいに、「いいもん」と「悪いもん」がいる世界、共産主義国家と民主主義国家の戦いといった『太平記』のような世界を信じているのだろう。いま、うっかり「太平楽」と書きそうになった。「太平楽」ではなく、『太平記』である。
 さて、極左、左翼、リベラルである私も(つまり自称「愛国者」の方々とは対極にいる人間と言いたいだけだが)、統一教会への解散命令を宗教弾圧であると思う。ただ、自称「愛国者」の皆さんのおっしゃるように、左翼がいろいろと画策し、国家が弾圧したなどとは絶対に思わない。だいいち、いまの左翼には、そんな力はない。
 そういう根拠のないことではなく、せめて「頭のなかだけは、最後の最後まで自由でなければならない」と、私は考えるからだ。この「」内は、私の宗教などに関するセントラルドグマである。このセントラルドグマに照らして、単純に弾圧だと感じる。
 このことは、スパイ防止法(≒治安維持法)を考えれば逆照射される。戦前、戦中、治安維持法はマスコミをまず締めあげた。そして共産主義者を締めあげ、それは社会主義者に及び、最後はアダム・スミスの研究者にまで及んだ。これは、統制経済(≒国家社会主義的経済)以外を認めないとしたからであるし、頭のなかまでを取り締まりの対象としたからである。神谷宗弊のような人ですら、治安維持法に関して(戦前、戦中は)「適用を間違えた」と言っている。「適用を間違えられる法律」なのだ。「適用を間違えられる法律」は、法律として不備な法律である。
 脱線した。話を戻す。
 私がわざわざ淫祀邪教である神聖奉教(笑)までこしらえ、この邪教そのものである宗教を擁護(笑)しているのも、「頭のなかだけは、最後の最後まで自由でなければならない」という理由からであり、このシリーズでわざわざ内村鑑三家のお手伝いさん(キツネを拝んでいる)まで登場してもらったのも、同様の理由からである。キツネを拝むのは、愚かなことかもしれない。だから、愚かと断罪する自由が第三者にはあるかわりに、お手伝いさんの側にも、その愚かを貫徹する自由がなければならない。
 だから、宗教を裁くとしたら、宗教そのものを裁くのではなく、信者、あるいはその教団が犯した行為を、民事、刑事で裁くのでなければならない。法的には、この手続きで整序される。
「統一教会問題は社会の問題なのか3(0308)」で、ネットワークビジネスの現場のお話をし、飯干景子のコメント「そこで出会った人たちは、共感し褒めるのがとても上手かったですね」「その人たちといると、安心感があった」を紹介したのは、この「共感」により、その現場(統一教会の道場めいたところ)に居続け、家に帰らなくなった人たちのことを考えたからである。
 その人たちが未成年であれば、親権を有する人たちによって訴えがなされ、それが受理されれば、拉致監禁罪は適用されるだろう。だが、その人が成人であったらどうなるのか。さらに私は、たとえその人が未成年であっても、その人の意志は、最大限尊重すべきだと思う。
 だから、おそらく、統一教会の問題は、宗教そのもの、宗教なるものにまで拡大して考えなければ本当の解決はつかないのかもしれない。
 いま、私は、「あれは宗教ではない」と断じる誘惑にさらされている。あれは宗教ではないという論を立てるには、統一教会の教義を把握しなければならないだろう。『原理講論』というのがかつては市販されていたそうだ。だが、現在は市販されてはいないようで、古本市場を探すか、図書館にあたるしかないようである。ちなみに、私が住む八王子市の図書館にはなかった。
 また、調べた限りでは、講習のようなスタイルで宣教する部分が非常に多いという記述にもぶつかった。
 さてどうしたものか。

統一教会問題は社会の問題なのか7(0312)

「統一教会問題は社会の問題なのか」シリーズの最終回。
 まず、統一教会問題でもフレームアップされた過剰献金についてお話ししたい。『使徒行伝』第五章に、次のようにある。

 アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペトロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、精霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」

「アナニヤはこの言葉を聞いているうちに」、かわいそうに、死んでしまう。三時間後にその場にやってきたサッピラに対しても、ペテロは「あの地所は、これこれの値段で売ったのか」と足もとにおかれた金を前に、執拗に追及する。サッピラは「そうです」と答え、夫の後を追い、死んでしまう。
 神さまもひどいことをするものだが、ここでは、神(宗教)の論理と市民社会の論理とは別のものであることが示されていると読むべきだ。
 正確な言い方は憶えていないが、「宗教はその時期の社会思潮と逆立した形で現れる」という言葉がある。たしか、吉本隆明さんの言葉だ。
 この言葉に照らして考えると、ペテロはアナニヤとサッピラに、「おまえは社会に従うのか、神に従うのか」と問うたことになる。アナニヤとサッピラは、「神には従わない(社会に従う)」と答えたことになる。それで、神の怒りに触れた。
 これが私の考える、このエピソードの解釈である。ここで、神は社会に逆立している。
 だが、神の側(宗教)も、社会思潮という重力にさらされ、国教化(普遍化)するに従い、社会の側と取引をするようになっていく。中世あたりに一般的になった「十分の一税」は、その取引の結果であると、私には思われる。
 この『使徒行伝』にあるエピソードを、市民社会という物差しで判断しても、なにも見えてこない。市民社会=善、宗教=迷妄、迷信という単純化も、ほとんど意味をなさない。
 特に私たちの国では、戦前は天皇が神であったし、民衆は臣民であったし、市民なるものが登場してからせいぜい80年である。それもあってか、統一教会問題では、市民の側からの異議申し立てが、神の領域にはなかなか届かない。
 だが、こういう立論でひとつだけはっきりしているのは、統一教会は「社会に逆立」したこと(過剰献金、霊感商法等)はしたが、社会思潮にはまったく逆立しておらず、むしろ安易に共産主義を悪魔にし、「アダム国」「エヴァ国」などと、一方の社会思潮に乗っかったものとしか見えない。この点からも、「新しく出て来た宗教」ではないと私には感じられる。
 私は、『原理講論』を入手し、読むべきかどうか、まだ迷っている。よしんば手に入れ、読んだとしても、時間の無駄になるおそれが十分にあるからだ。前のパラグラフから考えると、その可能性のほうが大きい気がする。

【追記】

 3月中旬の標題写真は、オオイヌノフグリ。3月9日の遊歩道で発見した。春がそこまで来ている。
 その場所は、毎年「いぬふぐり」(イヌノフグリ)が咲くところである。どちらも気の毒な名前だが、花はなかなかに可憐である。
 イヌノフグリのほうは在来種だろうが、「オオ」がつくほうは明らかに外来種で、ヨーロッパ原産。「星の瞳」「瑠璃唐草」「天人唐草」などの異名もあるという。こっちで呼んでやろうよ。
 オオバコ科ベロニカ属の越年草である。

『言霊の舟』読了(0313)

 標題『言霊の舟』(藤原書店)は白川静、石牟礼道子の共著である。往復書簡集であり、二度ほど行われたこのお二人による対談も収録されている。それぞれ単独で、相互への評も書いている。「評」とは言ったが、ラブレターのようだ。
 白川の代表作である字書三部作『字統』『字訓』『字通』など、私から見るとまさに屹立というに等しく、しかもこの「山」は独立峰のおもむきがあるので、遠くから見ていると、登山道があるのか、登山道があったにしても自分などにはたして登れるのか、見当もつかない。そこで、登山道を探すべく、この共著を読んでみたわけである。
 この独立峰に石牟礼道子が「無謀にも」挑み、「押しかけ弟子」となったのは1993年 。白川静(83歳)、石牟礼道子(66歳)のときだった。二度行われた対談は「押しかけ弟子」として石牟礼が「入門を許された」後のことである。
 白川は長らく立命館大学文学部教授を務めた。
 学生運動が華やかなりしころ、大学側で大衆団交に立ち会った白川を学生が殴り、かなりの重傷を負わせたが、その夜も遅くまで白川の研究室には煌々と明かりがついていたという有名なエピソードがある。その明かりは、学生どもの肌に粟を生じさせ、殴った学生を始めとして、学生連中は、それからは畏敬の念を持って白川には接するようになったという。
 石牟礼を、私は『苦海浄土』で知った。水俣病を告発した書籍である。だから、どちらかと言えば石牟礼は殴った側に属する。つまり、この「押しかけ弟子入り」はどちらかと言えば殴った側が、殴られた人に弟子入りしたことになる。
 こういう対立でものごとをとらえるって、本当にバカバカしいでしょ。それを知ってもらいたくて、あえて書いた。
 いま、水俣病を告発したと言ったが、石牟礼は自らを環境活動家とは考えてはいない。常々「私は社会運動家ではなく、詩人であり作家です」と言っていたらしい。
 私は、『苦海浄土』一冊で、この人の「巫女さん体質」を嗅ぎ当て、それからはあまり近寄らないようにしてきた。これは半分は冗談であるが、半分は本当である。
 標題に「読了」とあるわりには、ここまで本そのものの内容の話はしていないが、いい本である。内容などどうでもいいほどのいい本である。お二人の姿勢、身のこなしがすばらしい。それに接することができるだけでも、この本は価値がある。
『孔子伝』(中公文庫)、『中国の神話』(中公文庫)以外に、私は、白川静の著作を読んでいない。でも、この拙文を書く過程で、屹立三部作『字統』『字訓』『字通』以外にも、『漢字—生い立ちとその背景』(岩波新書)、『詩経—中国の古代歌謡』(中公新書)、『中国の神話』(中公文庫)、『初期万葉論』(中公文庫)、『後期万葉論』(中公文庫)など、入手しやすい本の存在を知ったので、読んでみようと思っている。
 なお、Wikipediaにあった白川批判も紹介しておかないとアンフェアな気がするので、引用する。

 白川は、甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちには宗教的、呪術的なものが背景にあったと主張したが、実証が難しいこれらの要素をそのまま学説とすることは、吉川幸次郎、藤堂明保を筆頭とする当時の主流の中国学者からは批判され、それを受け継いでいる阿辻哲次も批判的見解を取っている。万葉集などの日本古代歌謡の呪術的背景に関しての論考もしているが、専門家の支持を受けているとは言いがたい。

 だが、こういう批判は少なくとも私には届かない。「ああ、そうですか」と思うだけだ。私は学界の人ではなく、単なる「学」の愛好者に過ぎないのだから、「ああ、そうですか」である。さらに言えば、甲骨文字や金文の時代のことは、実証などできるはずがないのだ。
 最後に、白川静の卒寿に石牟礼道子が送った詩を紹介する。

 魚のごと
 遠き世の文字
 むれ遊び
 言霊の舟に
 師は立ちたまふ

 書名は、ここから採ったのだろう。白川と石牟礼の交流は、「学」に依るものではないかもしれないけれども、「霊」の交流、文字の背後に感じられる「霊」の交流ではある。
 本当に本当の最後に、『孔子伝』(中公文庫)の「あとがき」にあった言葉を紹介する。

 邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とする。
 あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗しうるものは、この「狂」のほかにはないように思う。

 これが白川静である。

戦中かよ!(0314) 

「高市早苗は意外といけるんじゃないか(0222)」のなかで、「高市首相 施政方針演説 全文」を読んだと言い、この演説中の文言「対処力」に対して、「『対処力』ってなんだよ。聞いたこともねえや。戦闘力のことだろうが」と悪たれたが、これ以外にも、「施政方針演説」中にはこのスタイルの言い換えが多々あった。言い換えというより、「はぐらかし」「ごまかし」と言いたい。
 たとえば、護衛艦「いずも」は事実上空母に改修されたが「多用途運用護衛艦」、核融合は「フュ―ジョンエネルギー」、原子力推進以外に考えられない潜水艦を「次世代の動力」などである。戦中かよ!
 毎日新聞3月4日掲載の「今日も惑いて日が暮れる」(吉井理記)には、「2014年、『武器輸出三原則』→『防衛装備移転三原則』に閣議決定。NHKなどメディアもこれに追従した」とあった。安倍晋三は、なんでも閣議決定だな。「安倍昭恵は私人である」と閣議決定したもんな。このへんも、高市早苗は安倍晋三の立派な後継である。
 NHKもこの閣議決定に盲従し、ニュースでは、《防衛装備品の海外への移転をめぐり、自民党の安全保障調査会は、殺傷能力のある装備品も原則移転可能などとする提言案について…》と、防衛装備品などと妄言(妄単語だな)を垂れ流している。「殺傷能力のある装備品」ねえ。「武器」と言っちゃえば、二文字で済むのに。「はぐらかし」「ごまかし」「文字の無駄遣い」。
 このNHKすら、愛国者の皆さんは、左翼メディアとおっしゃる。どこがや。
 そのうちこいつらは、広島・長崎に落とされた原爆すら「それ自体は旧世代に属するものの次世代の技術を使った防衛装備品」などと言い出すのかね。冗談じゃないね。なんとかしろよ、国語審議会! 八つ当たりですな。
 こういう言葉狩りメンタリティは、おそらく戦争中に発生した。1940年前後から、と言われている。
 自動車関係では、エンジン(発動機)は普通だが、ラジエター(散熱器)なんか、かな漢字変換すらしない。キャブレター(化油器)になると、もはや判じ物に両足を突っ込んでいる。ブレーキ(制動機)はまだ通じるものの、クラッチ(摩擦接手)は、「よく考えたね、キミたち」と、むしろ感心してしまう。
 難読用語には、タイア(輪胎)がある。「タイ」だけは残したかったのかね。なんだかいじましい感じすらする。
 軍隊に行くと、ズボン(洋袴)があるが、これをcopilotクンは「ようばかま」と読んでいる。私の記憶では、これは「ヨウコ」だったはず。「袴」は「コク」とは読むが、「コ」とは読まないはずで、でも、日本語を間違えたって英語さえ使わなければいいということなんだろう。シャツ(襯衣)になると、これを「シンイ」と読める人のほうが稀だろう。
 こういった敵性用語対応珍奇日本語で私が好きなのは、カステラ(加須底羅)、ビスケット(美須鶏途)、チョコレート(貯古齢糖)などであるが、特にチョコレートの「糖」などは絶品の漢字選択と言っていい。
 それにしても、「対処力」「多用途運用護衛艦」「フュ―ジョンエネルギー」「次世代の動力」(による潜水艦)「防衛装備品」だもんなあ。こんなことで、国民がだまされると思っているなんて、どうかしているとしか言いようがないね。

驚愕!不覚珈琲味(0315)

 まだ、昨日の影響が残っている(笑)。
 とは言っても、珈琲は、戦中用語ではなく、明治初期からこの字が使われている。昔々、「珈琲館」というチェーン店がコーヒーに対応するいろいろな漢字表記を一覧表にした額のごときものを掲示していて、私は、コーヒーを飲みながらそれを見るのが好きだった。「可否」なんてのもあったな。どっちなんだろうね。
 さて、本日は、コーヒーネタである。
 朝起きたら、まずコーヒーを淹れ、飲みながらバッハを聴く。至福の時間である。演奏者、曲目は変わるものの、コーヒーは不変、バッハも不変。のはずだった。
 ところが、である。
 今年の1月に、コーヒーの味が変わった。1日目は、コーヒーのロットが変わったせいだろうと思った。ところが、2日目で、また変わった。もちろん、ロットは同じである。
 ここでちょっと解説しておくと、コーヒーは言うまでもなく農作物である。だから、同一の味であるはずがない。これを同一に感じさせるのはブレンダーの腕であり、焙煎者の腕だ。
 そのため、同じスーパーで、同じブランド、同じ種類の豆を買い、それを淹れてもパックにより微妙に味が違う。だから、この微妙な差を誤差とし、ある帯域に入っているものを「同じ味」と感じているはずだ。
 味が違うので、はじめは、淹れ方を間違えたのかとも思った。同じ水、同じ手順でも、淹れ方により微妙な差異は出る。
 3日目。
 そういう微妙な差異ではなく、豆のせいでもなく、私の味覚のせいではないかと思い至った。
 そう思ったせいかどうかはわからないが、それからも約2か月間、毎日味が変わっている。
 驚愕したのは昨日である。
 昨日までは、味が変わっているものの、うまいことはうまいとは感じていたのだが、あまりうまいとは感じられなかったのである。いや、うまいことはうまいんだよ。うまいことはうまいんだが、「うまいなぁ」という感じがない。この「なぁ」がなくなったのは、かなり決定的なことだった。
 おそらく、老齢のせいなのではないか。いま、私は76歳である。
 私は老人医学の本やらなにやらを比較的読むほうだとは思うが、老齢のせいで味覚になにやらの障害が出るというのは聞いた(読んだ)ことがない。
 ちなみに、他の飲み物、食い物の味が変わったという自覚はまったくない。それだけコーヒーの味は微妙だということなのだろうか。
 前向きに考えると、味覚は成長するという説がある。子どものころには甘いものがともかく好きでも、成長するに従い、微妙な味がわかるようになり、苦味、渋みなどを尊重するようになるというのは聞いたことがある。
 開高健の『新しい天体』はこういったことを書いた小説で、食品会社に奉職する主人公が特命を受け、世界中のうまいものを食い、かつ飲み回るという話である。つまり、「新しい味を探せ」という特命を会社から受けたわけだ。主人公は美味を求め、世界中を回る。
 最後に主人公が行き当たったのは水、一杯の本当にうまい水だった。モーリス・メーテルリンクの『青い鳥』を彷彿させる話だ。
 こんなのん気なことをお話している場合ではない。このまま、コーヒーの味から、「うまいなぁ」の「なぁ」が脱落した余生をすごすのだろうか。いやだなぁ。これには「なぁ」は付いてるけどなぁ。
 

軽いカフカいるか(『帰れない探偵』)(0316)

 標題は回文になっている。
『帰れない探偵』(柴崎友香)は、いわゆる純文学である。以前、『大使とその妻』(水村美苗)を読み、紹介したが、それ以外では小林信彦さんに純文学作品があると言っているのが、当『シェアハウス・ロック』では、いわゆる純文学に触れたすべてである。
 つまり、正直に言うと、私は純文学なるものがよくわからない。根が不純だからかもしれない。
 諸外国では、純文学などというものはないのではないか。全部一緒くたに「ノベル」なのではないか。まあ、こんなことを言っていてもしかたない。
 この『帰れない探偵』は、畏友その1からのお題である。「読後の感想を述べよ」ということだろう。文学青年でもあるまいし、面と向かって読後感、ましてや純文学の感想を述べるなど、なんとも照れくさいことである。それで、この拙文を書いている。
 だから、畏友その1に向けて書いていることは書いているのだが、それでも、ここに書くからには、批評のレベルになんとか近づけようと努力はしている。
 結論から言うと、『帰れない探偵』はとてもおもしろい本ではあった。
 一人称小説である。主人公は「わたし」。女性のようだ。この「わたし」は最後まで名前があかされない。
「わたし」は、「世界探偵委員会連盟の本科を卒業したあと、さらに三年の専修コースを修了した」とある。後述するが、高校を卒業したあとのこの学歴は、なかなか「エデュケイテッド」である。探偵になるのにこれだけの教育を受けるということすら、すでにして、『帰れない探偵』の描く世界は、なかなかにいかがわしくなっている感じがする。
「わたし」は、世界探偵委員会連盟の指令によって、世界の各地に行き、仕事をする。だが、その「各地」がはっきりしない。たとえば、フィリピンのマニラを思わせる土地だったり、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイを思わせる都市だったり、アイルランドのどこやらの都市らしいところだったりするのだが、あまりはっきりしない。

 異国で働きはじめて数か月後、わたしの育った国で大きな自然災害が起きた。(中略)経済や社会は混乱し、議会が機能しない時期が続いた。そこに、世界的なパンデミックが起こり、外国との人の行き来が途絶えている間に、国の統治体制が変わってしまった。(p.57)

「わたし」はどうも日本人らしい。だが、その日本も、上記引用のように変質してしまった日本である。同様に、マニラもドバイもアイルランドの都市も、どことなく変質にさらされているように見える。
 この変質は、よくサイエンスフィクションに出て来るパラレルワールドのように、「元」の世界とは微妙に異質な世界であるようだ。
 これらのことにより、足元が定かでないという浮遊感が、この小説全体を支配する。確固とした浮遊感。
 冒頭、どこかは不明な街で、「わたし」は、

 停電があったのは、この街に来て七日目の夕方だった。(p.12)
 そうして事務所に戻ろうとしたら、私はもうすでに帰れなくなっていたのだった。(p.15)

という事態に陥る。
 カフカ『城』の主人公Kは、城に雇われた測量士であるにもかかわらず、雇用実態もあいまいで、城側の返答も要領を得ず、また矛盾し、城に入れないうちに物語は終わってしまう。そもそも城への道が見つからないし、城にたどり着くのも大変だった。物語は終わると言ったが、完成前にカフカが亡くなったので、正確には未完である。物語が終わる前に、『城』は終わってしまうのである。
 カフカの『城』の主人公Kは、城に入れないのだが、『帰れない探偵』である「わたし」は、事務所に帰れず、また自分の生まれた国、育った街にも帰れないのである。
 そんなカテゴリーは聞いたこともないのだが、私の頭に不可能小説という語が浮かんだ。

不可能小説は可能か?(『帰れない探偵』2)(0317)

『帰れない探偵』(柴崎友香)には、劇的なストーリー展開はないと言っていい。ふわふわとした情景描写、心理描写が連綿と続き、読者は「わたし」とともに、その連綿と続く浮遊する土地をさまようことになる。
 その浮遊する世界、浮遊する土地で、世界探偵委員会連盟から来た指令に従い、「わたし」はふわふわと業務をこなしていく。だが、この業務も、なんの役に立つのかよくわからないところがある。
 前回お話しした「わたし」が日本人であるらしい根拠を、作中からもうふたつだけひろってみる。前回紹介した「根拠」よりも、今回の「根拠」のほうが、「実際の現実(!)」に近い。

 わたしが育った国は、国の範囲と住んでいる人と話す言葉が最初からずっと同じでそこにあるものだという歴史観が強くあって、(中略)ほかの国に対しても土地と人間と言語がセットになっているイメージを持ちがちだし、昔から住んでいたのに自分たちと違うと見なした人や様々なルーツを持つ人、いろんな理由で移り住んで来た人たちのことは権利があるとは考えない(後略)(p.60)

 わたしが育った場所を離れるころにはすでに、国や行政組織の記録が改竄されたり、架空の統計が計上されたりしても、たいしたニュースにはならなくなっていた。問題になるどころか、それを指摘した人たちのほうが、くだらないことを言って政治に混乱や停滞を招いていると疎まれるようになっていた。(p.108)

 前者も後者も、まったくその通りで、現実そのものである。現実そのものではあるものの、逆にこの現実が、浮遊する世界への「隠し味」的に働くという逆説的な働きをしているようにすら見える。
 また、「わたし」が考える「実際の現実」と「わたし」が生きる浮遊した現実と、さらに読者が生きる「現実」とがサンドイッチ構造に見えて来る。これが、作者柴崎友香の企みなのかもしれない。
 文中、

 今から十年くらいあとの話。

というフレーズが、執拗に繰り返される。これも、『反復』(キルケゴール、枡田啓三郎訳、岩波文庫)、

 追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向って反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの追憶は前方に向って反復されるのである。(p.8)

を思い起こさせる。『帰れない探偵』は、「前方に向って反復される追憶」なのだろうか。
「わたし」の何回目かの赴任地がアラブ首長国連邦(UAE)のドバイと思われることの根拠は次だ。

 外は四十度を超える気温でも、モールや高層ビルの中は冷えすぎるほど冷房が効いているのでスーツでちょうどよく、(後略)(p.158)

 だが、上記引用は、ドバイ以外の都市でもいっこうに差し支えはない。どこでもない(どこでもいい)都市。nowhere city。ビートルズの『Nowhere Man』を思い出すが、この曲の邦題は『ひとりぼっちのあいつ』という、愚にもつかないものだった。そう言えば、「わたし」も常にひとりぼっちである。
 作中唯一と言っていい劇的なるものは、世界探偵委員会連盟から派遣され、「わたし」の部下になる一色と呼ぶ青年が、実はどこやらに連なる産業スパイらしく、「わたし」に薬を盛り、意識のない「わたし」からなにやらのデータを盗むところである。
 だが、これにしても、それほどの手間をかけて盗んだデータが、どれだけ大事なものなのかはよくわからない。
 前回の「軽いカフカいるか」は、『帰れない探偵』がカフカ的不条理に満ちているのではないかという前提で付けたタイトルである。
 柴崎友香がそれを意識しているに違いないことは、

「カフカの『城』って読んだことありますか?いや『審判』だったかな」
 隣に立っているスーツ姿の男が、話しかけてきた。(p.259)

という、物語のほぼ終盤に出て来るシーンで決定されると言っていい。
 これは、大阪国際空港らしき人工島での出来事だったはずだが、同じ空港で「わたし」は高校時代の友人に声をかけられる。「わたし」は彼女を認識したが、彼女のほうでは「友人に似ていた」とは言うものの、「わたし」とは認識できなかったのである。(p.288)
 ここにも「微妙に異質」「変質」の一端がある。「わたし」から見て友人はそれほど「変質」してはいなかったが、友人から見た「わたし」はかなりの「変質」にさらされていたに違いない。
 ただ、友人のほうは「わたし」を「もっと背が高かった」と言っていたから、「変質」していたのは友人の記憶のほうだったのかもしれない。

イメージの彼方へ(『帰れない探偵』3)(0318)

 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』の基本構造は、指示表出(度)、自己表出(度)をデカルト平面上にとり、そのマトリクスに言語によって成るもの(詩、小説等)を配置し、言語によって成るものの正体(美、意味、価値等々)を探っていくものだ。ただ、これは相当に雑な理解であることを、あらかじめお断りしておく。
 ここで、これも雑に、指示表出、自己表出を説明すると、(言語の要素である)指示表出が「外界の事物・事実」を指し示す働きをし、(言語の要素である)自己表出は「話し手の内面の状態」を表す働きをする。
 単語レベルでこのことを言うと、名詞は指示表出度が高く、自己表出度は低い。感嘆詞はこの逆で、ほぼ100%自己表出である。
 また、マニュアルの文章は指示表出度が高く、詩は一般に自己表出度が高い。
 プレパドの夏井いつきさんは、「映像が浮かぶ俳句がいい俳句」とよくおっしゃっているが、そのこととも、これは関連する。
 なかなか、『帰れない探偵』(柴崎友香)に帰れない(笑)。
 さて、『よろこばしき邂逅‐吉本隆明対談集』は、フェリックス・ガタリから山本耀司、川崎徹、横沢彪まで、吉本さんがあまり対談をしていないと考えられる人が多く出て来る対談集である。私は、小林信彦さんとの対談が掲載されているのを知り、買い求めた。
 そのなかに、笠井潔との対談がある。
 笠井潔は、象徴言語、観念言語という指示表出、自己表出に近接したタームを使い、次のように言う。
「普通純文学といわれるジャンルでは、観念言語を肯定的であれ、否定的であれ扱うときに、非常にボルテージの低いものにしかならない」「ドストエフスキーはそうじゃなかった。プルーストもそうじゃなかった」「日本でいえば夏目漱石もそうじゃなかった」「(彼らは)重たい言葉をつかって、重たいことを書いていける面があった」「この作業が(中略)観念性から人間を解放していくアートとしての文学を可能にさせた」
 この問いかけのようなものに対し、吉本隆明は次のように言う。

 あなたが観念言語と象徴言語と言ったのと同じ意味で、物語を運んでゆく意味としての言葉と、意味としての言葉で表現してあるのにもかかわらず、ある箇所はどうも意味だけじゃなくて、場面のイメージみたいなのがでてきちゃう言葉と、わけられると思うんです。言葉って言うのは元来イメージを生み出すのは不得意なはずなんだけど、イメージを喚起してしまう場面があります。

 この後、お話は『マス・イメージ論/ハイ・イメージ論』の方向へ向かうのだが、そこは省略。本当はそこがおもしろかったのだが、省略。

 もうひとつ概念的な意味としては、全然無化されてしまって、イメージだけになっちゃう言葉が考えられます。そうなっちゃう場合は、結局概念がことごとくイメージとか、映像とかに転化されちゃっている。

 そうして、とどめのように、次の言葉が続く。

 イメージと概念の対応性を考えれば、概念的な意味というのは全部イメージに転換して考えることができるんじゃないか。

 笠井潔は、「観念性から人間を解放していくアートとしての文学を可能にさせた」などと、モラリストの尻尾を見せているが(「モラル隠して尻尾隠せず」(笑))、この言い方を雛型として使わせてもらえば、『帰れない探偵』(柴崎友香)は、「観念性から人間、社会を解体していくアートとしての文学の可能性を探る」ものだったのかもしれない。
(『帰れない探偵』(1))の最後に、唐突に「不可能小説という語が浮かんだ」と書いたが、私の頭のどこかに、前パラグラフのなかのような「可能性」があったのではないかとも思う。
(『帰れない探偵』(1))(2)は、私が純文学が苦手なわりには健闘した評と思うが、最後は吉本さんにお出まし願わなければ収まりがつかなくなったようである。

ヘンな文章(0319)

 昨日まで柄にもなく、『帰れない探偵』(柴崎友香)の書評めいたことを3回連続で書いた。純文学だぞ。その影響で、あるいはその続きとして標題なのかなとお考えかもしれない。
 だが、『帰れない探偵』の文章は、むしろ簡明というか、わかりやすいものだ。もちろん、ヘンでもない。ただ、その簡明な文章によって展開する世界は、接地面が少ないため浮遊感に満ちている。そういうイメージを楽しむ小説なんだろうと思う。ただ、現実感が希薄な小説世界は心地よい。
 さて、本日は、そんな高尚な話ではなく、もっと下世話というか、低級な話である。
 私が住む八王子市では、駅周辺の一定の地域が路上禁煙になっている。だから、そのエリアにいるときは、その地域内に何か所か設置されている喫煙所で煙草を吸うことになる。
 そこに書かれているのが、次の文だ。

  八王子市では条例により
  路上喫煙禁止地区内の路上での
  喫煙を禁止しています。

 なんとも気持ちの悪い文章でしょう。なんだか原因、結果、前提、結論がぐるぐる回りしている感じがし、クラクラしてくる。
 おそらく、

  八王子市では、条例で、喫煙禁止区域を定めています。
  喫煙禁止区域に定められたエリアでの路上喫煙は禁止です。
  喫煙は、定められた喫煙所でしてください。

という3つの文を、強引に一文にしたところに問題があるのではないかと思う。八王子市 環境部 環境政策課の文責である。
 あるいは文例(笑)から、一行目を取ったものが元々の文だったとも考えられる。一行目を取っても十分にヘンだが、一行目はそのヘンさへの画竜点睛となった。たぶん、課長とか部長とか、エライ人が「条例で決まってると言わなきゃだめだろう」とかなんとか、余計なことを言ったのだろう。
 街で見かけるこの手の文章には、なんとなくヘンというものが、けっこう目につく。
 通常は、丁寧に言おうとして、その丁寧さによって文全体が破綻を招くというケースが多いような気がする。
 たとえば、新宿の伊勢丹には、

 申し訳ありませんが、木曜日は定休日です。
 またのお越しをお待ちします。

というものがあった。木曜日は、水曜日だったかもしれないが、それはどうでもいい。これは、「申し訳ありませんが」が不要。なまじそれがあると、確信犯的に申し訳ないことを、毎週している感じになってしまう。
 同じ構造で、確か、ベローチェというチェーンのコーヒー店だったと思うのだが、

 ご面倒ですが、お使いになった食器は、返却口にお戻しください。

とあった。これも、「ご面倒ですが」は不要。なまじあると、面倒なことを知りつつも、客にやれと言っていることになってしまう。
 それから、自動販売機、駅の券売機などに、「故障中」という貼り紙がよくある。これも、「中」はいらないと思う。「中」があると、断固たる意志をもって故障させているような感じになってしまう。
 昔々、10年くらい前に、こういうヘンテコな文例をメモして収集していたことがあるが、そのメモがどこかに行ってしまった。あれがあれば、もっと書けるのだが。

 
つまらない話(0320)

 本日はつまらない話である。書いている本人が言うんだから間違いない。
 50歳を過ぎたあたりから、歯にものが挟まるようになった。ほぼ同じころ、長女に歯間ブラシを使うことを勧められた。
 自分の住まいにいるときは、歯間ブラシもつまようじも手元にあるからいいものの、外出時、なにか食べたときに、そのいずれかが必要になることがままある。食堂や居酒屋などにつまようじがあればいいのだが、ないときもある。
 袋入りのつまようじを置いてある店もある。そのときには多少気がさすが、1、2本余分にもらっていた。
 その罪悪感が積もり積もって、自分でケースをつくる決心をした。こういうセコい工夫、セコい工作が、私は大好きなのである。
 材料はプラスチックのストロー。それをつまようじよりもちょっと長めに切る。底とフタは、なんらかの食品を買ってきたときのプラスチックケースを切って使った。まず底の部分を接着し、余分なところをカッターで切る。フタは、底に使ったプラスチックをやや長めに細長く切り、先端を90度曲げ、「T」の「上板」の半分がない形状のものをつくる。それを胴体に接着し、つまようじを取り出すときには頭の部分をズラすようにする。
 これでザマはあまりよくないが、用をなすものになった。もう、数日使っていて、具合はまあまあである。
 さて、これは、モックというか、プロトタイプだ。
 最終製品(笑)は、竹を使おうと考えている。
 我がシェアハウスのおばさんと私は、おばさんの友だち・コウジロウとそのパートナー・サトちゃんと4人で、毎年筍狩りに行くことが恒例になっている。サトちゃんは足がよくないので、訓練を兼ねて参加するようだ。訓練というよりも、チャレンジだとサトちゃんは考えているのかもしれない。けっこう、登り降りがハードなのである。
 そのときに筍だけでなく、下枝を刈ったものももらってこようと考えている。
 竹を曲げる細工がちょっと大変そうだが、なーに、ゴム動力プロペラ機製作で鍛えた腕とノウハウがある。
 竹の製品は、なるべく工芸品めいた仕上がりにしたいという野心を抱いているが、はたしてどうなるか。
 残りの竹で、陶芸のときに使う道具をまずつくろうと思っている。これは、布を挟んで、指が届かないところを成形するためのものである。
 もうひとつ、コーヒーを淹れるとき、ミルに残ったコーヒーの粉を掃除するためのブラシもつくろうと思っている。現在はプラスチックのものを使っており、あれを使うのをやめたいと考えているからだ。
 考えているだけで楽しくなってきた。
 元気も出てきたので、明日は、高市早苗の子ども自殺対策「7代先祖250人超」答弁を批判することにする。

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