苦しみを乗り越えて詩を書くこと∶凍結された時間の行方
先日、亡くなられた奥さんの追悼の詩をブログに投稿している方の話を聞きました。
私は妻を亡くした経験はありません。ですからその苦しみは想像の域を出るものではありません。
ただ、その苦悩を乗り越えて詩を書くということについて、私はオーストリアの精神科医、ヴィクトール・フランクルの提唱した、生きる意味を見出すための3つの価値(三大価値)を思い出しました。
フランクルの説いた三大価値とは
その3つの価値とは以下のとおりです。
創造価値∶
作品の制作、仕事、ボランティアなど、「自分が世界へ何かを与えたり、創り出したりすること」を通じて実現される価値です。体験価値∶
自然の美しさや芸術に感動すること、他者を愛することなど、「世界から何かを受け取り、体験すること」で得られる価値です。態度価値∶
病気や逆境など、避けられない苦しみに対して「どのような態度をとるか」によって立ち現れる価値です。
創造や体験の自由が奪われた極限状態であっても、この「態度価値」だけは最後まで人間に残された絶対的な自由であり、この3つの内の「最高位」に来る価値とされ、フランクルの思想の核心とされています。
三大価値へのさらなる疑問
ここで私には一つの疑問が湧いてきました。
愛する妻とともに生きることは体験価値の一つだと思いますが、その妻が亡くなった後、追悼の詩を書くのは態度価値でしょうか、それとも詩を創作するという意味で創造価値でしょうか。
それは「創造価値」と「態度価値」の両方が重なり合い、見事に昇華された行為と言えます。
フランクルの理論において、それぞれの価値は排他的(どちらか一方だけ)なものではありません。
フランクルの視座∶2つの意味
フランクル自身、絶望的な苦難(態度価値が問われる場面)に直面した人間が、それを表現したり乗り越えたりするプロセスで、「創造価値」を発揮することは、人間らしさの最も高貴なあらわれであると考えていました。
体験価値を失った絶望の中で、態度価値という「精神の踏ん張り」が生まれ、それが創作や表現(創造価値)へと昇華される——。
フランクルは、このプロセスこそが「苦難を勝利へと変える人間の精神的偉大さ」であると見なしました。
そして、追悼の詩を書くという行為は、単なる精神的な自己満足や悲しみの紛らわせではありません。フランクルに言わせれば、以下の2つの意味を持ちます。
愛の永続化: 存在としての妻は失われても、作品にすることで「愛したという事実」と「受け取った価値」をこの世界に永遠に刻み込むことができます。
責任の遂行: 「この悲しみをどう表現し、どう生きていくか」という人生からの問いに対し、詩という形で責任ある返答(レスポンス)を果たしています。
このように、苦難(態度価値)を表現(創造価値)に変える姿勢は、フランクルが強制収容所という極限状態で自ら実践し、証明した「生きる意味」の真髄と言えます。
個人的な考察∶「支え」への感受性
詩を書くことは創作する行為です。創作をギリシャ語で「ポイエーシス」といいます。ポイエーシスとは世界に働きかけることです。
ギリシャ哲学におけるポイエーシス(ποίησις)は、単に「ものを作る」という個人的な作業にとどまらず、「自らの外側にある世界に向かって働きかけ、そこに新しい現実や意味を現出させる営み」です。
心が潰れてしまいそうになるほどの、大きな苦悩を乗り越えて、このポイエーシスを実現することは、フランクルの言うとおり、人間の精神の偉大さや高貴さの顕れなのでしょう。
しかし私は、その顕れには様々な「支え」があったのではないかとも思うのです。それには目に見えるものもあれば、目には見えないものもあったでしょう。
己のポイエーシス実現の背後に、その様々な支えを感じ取る感性があって初めて、その精神の高貴さは顕れるのではないかと、そんな気もします。
ちなみに、ポイエーシスとはPoetryの語源でもあるそうです。私も時に詩を書きますが、その背景には先人の苦悩や詩がありました。そのような先人の働きかけが、私を詩作に導き、そして私は詩を以て世界に働きかけるのです。それは一度は凍結した時間を再結晶化させ、受け継ぎ引き渡すことでもあります。
詩を書く者とは、皆そのような、流れゆく「大河の中のひとしずく」なのでしょう。
たとえ小さなしずくであっても、そこには大河の力と輝きが宿っているのです。
