第4託「勇者、剣を抜かずに勝つ」
朝靄の中に、六つの影があった。
背丈は俺の胸くらい。緑がかった肌に、不揃いな棍棒と錆びた短剣。ゴブリンだ。話には聞いていたが、実物を見るのは初めてだった。
想像していたより、ずっと嫌な匂いがした。
「ユート様。下がってください」
フィアが俺の前に出た。かちゃり、と鎧が鳴って、細い指が剣の柄にかかる。声は落ち着いていた。さっきまで毒草の話で赤くなっていた同じ人間とは思えない。
「六体。数は多いですが、統率のない群れです。私が引きつけて、順に——」
『あー、騎士ちゃん、それ厳しいですねぇ』
頭の上でカミュが言った。珍しく、軽口の温度が低い。
『街道が狭いんで、囲まれはしませんけど。逆に言うと、抜けられないんですよ。六体全部倒すまで、道が開かないってことです』
「六体全部……」
フィアの喉が、こくりと動いたのが分かった。
俺は知っている。こいつは自分で言っていた。体力だけは褒められた。剣は、まだ上の方には遠い、と。
その時だった。
頭の中の砂嵐が、ざわり、と動いた。
《おっ、初陣だ》
《やるじゃん騎士ちゃん》
《でも六体はきつくない?》
《勇者は突っ込むべき》
《いや無理でしょ素人だぞ》
「……うるさい」
思わず声に出た。フィアが振り返る。
「ユート様?」
「神々だ。見物してやがる」
『あー、そうですねぇ』カミュがひらひらと舞った。『言っときますけど、これ神託じゃないですからね。天啓の日は先週消化しちゃったんで、正式な神託は次の天啓の日まで降りません。今聞こえてるのは、ただの——』
「野次か」
『ヤジです』
最悪だ。俺の初陣を、天界の連中が酒でも飲みながら眺めている。しかも口だけ出してくる。
だがその雑音の中に。
《——街道の、右》
一つだけ。
《傾いてる。使えるんじゃないか。……剣で勝つ必要はないだろ》
掠れた、低い声だった。
俺は、息を呑んだ。
この声を、俺は知っている。先週、あの丘で、無音の底からぽつりと落ちてきた声。二〇一票より重かった、たった一票。
同じやつだ。
「……カミュ」
『はい?』
「今の、票になるのか」
『なりませんよ。天啓の日じゃないんで、ただのつぶやきです。一柱が何を言おうが、正式には無効でーす』
無効。
そうか。じゃあ、これは神託じゃない。俺が従う義務は、どこにもない。
——だったら。
俺は、街道の右側を見た。
朝靄の中に、木立の斜面がある。雨のあとで土がゆるんで、なだらかに崩れかけている。その下に、たしか——あった。行商が使う古い荷車の残骸。車輪が外れて、半分土に埋もれている。
そして俺の背中には、村中から押しつけられた荷物がある。
その中身を、俺は全部把握している。三日かけて自分で詰めたからだ。
「フィア」
「はっ、はい!」
「剣、抜くな。まだだ」
「え」
「三十秒くれ。……勝てるようにする」
「な——」
俺はもう走り出していた。
言っておくが、俺は勇者らしいことなど何ひとつしていない。
やったのは、いつもの雑用だ。
まず、荷物から干し肉の塊を三つ掴んで、街道の左側——斜面と反対の、藪の奥へ思いきり投げ込んだ。
ゴブリンの首が一斉にそっちを向いた。当然だ。あいつらは朝靄の中で腹を空かせている。パン屋のじいさんの堅焼きパンならともかく、村の連中が持たせてくれた干し肉は、正直、人間でも走り出す匂いがする。
六体のうち四体が、我先にと藪へ雪崩れ込んだ。
「散った!」フィアが目を見開く。
「まだだ」
俺は次に、綱を出した。
旅の必需品として持たされた、二十尺ばかりの麻縄。それを木立の根元と、街道を挟んだ反対側の杭に、低く、地面すれすれに張った。
結び方は——山羊の綱の結び方だ。
引っ張られるほど締まって、緩まない。片側から一度だけ強く引けば、ほどける。子供たちに教えたやつ。この村で俺しか知らなかったやつ。
「フィア! 残り二体、こっちに追ってくれ! 走らせろ!」
「は、はい!」
フィアが吠えた。鎧を鳴らして踏み込み、剣の腹で棍棒を弾く。腕は本物だ。二体のゴブリンが、頭に血を上らせて彼女を追い、まっすぐこちらへ突っ込んでくる。
そして、綱に足を取られた。
二体がもつれ合って転がる。そこは斜面の縁だった。ゆるんだ土が、二体分の体重を支えきれずに、ずるりと崩れる。
「今だ!」
フィアの剣が閃いた。
一体目。転がった勢いのまま、首筋へ。二体目は起き上がろうとしたところを、埋もれた荷車の残骸に阻まれて動けず、そこへ剣が落ちた。
藪から四体が戻ってきた時には、もう遅い。
狭い街道の、崩れた斜面の下。足場の悪いその一箇所に、四体は次々と足を取られた。そこはもう、フィアにとって「六体を相手にする戦場」ではなく、「一体ずつ順番に処理する場所」に変わっていた。
騎士見習いの剣が、四度、朝靄を裂いた。
終わってみれば、俺は一度も剣を抜いていなかった。というより、抜ける剣を持っていなかった。俺の得物は今のところ、干し肉と縄と、この背中の荷物だけだ。
フィアが肩で息をしながら、こちらを振り返った。銀髪が汗で額に張りついている。
「ユート様。今のは……何をなさったのですか」
「餌で分断して、綱で転ばせて、崩れる斜面に誘導した。それだけだ」
「それだけ、って」
「山羊を捕まえるのと同じだよ。正面から追いかけたら絶対勝てない。だから逃げ道を三つ塞いで、一つだけ開けておく。……村で十六年やってた」
フィアは、しばらく口を開けたまま俺を見ていた。
それから、彼女は、なんだか泣きそうな顔で笑った。
「騎士学校では、習いませんでした」
「そりゃそうだろ」
「教官は、正面から勝てと」
「その教官、山羊に勝てないと思うぞ」
フィアが吹き出した。鎧の肩が揺れて、かちゃかちゃと間抜けな音を立てた。
『いやー、お見事お見事』カミュがぱちぱちと光を明滅させる。拍手のつもりらしい。『歴代勇者で「初陣で剣を抜かなかった人」、ボクが知る限り初めてですよ』
「褒めてんのかそれ」
『褒めてますよぉ。……ヤジに乗ったのも、含めて』
俺は空を見上げた。
朝靄が薄れて、青が覗いている。あの掠れた声は、もう聞こえない。
乗ったんじゃない、と思う。あいつは「斜面が使えるんじゃないか」と言っただけだ。干し肉も、綱も、荷車も、俺が見つけた。俺が決めた。
でも——たしかに、あの一言がなかったら、俺は斜面を見なかった。
「……なあ、カミュ。無効票の神様には、礼を言えるのか?」
『言えませんねぇ。届く保証もないです』
「そうか」
まあいい。どうせ見てるんだろう。あいつは。
その日の昼過ぎ、俺たちは街道沿いの町、フェルトに着いた。
そこで、空気がおかしいことに気づいた。
町の広場に人だかりができている。王国の紋章を掲げた早馬が数頭、泥まみれで繋がれていた。壁には、真新しい布告が貼り出されている。
フィアが人垣をかき分けて前へ出て、そして固まった。
「……ユート様」
彼女の声が、震えていた。
布告には、こう書かれていた。
『——北方山脈にて、魔王城の出現を確認。王国はこれを百年周期の魔王復活と正式に認定する。全騎士団に第一級動員令を発令。勇者の登城を待つ』
広場のざわめきが、遠くに聞こえた。
魔王。ずっと、他人事みたいな言葉だった。カミュが軽い調子で「魔王討伐です☆」と言って、俺が「軽っ」と突っ込んで、それで済んでいた言葉。
それが今、王国の紋章入りの紙に、正式な文字で刻まれている。
隣で、誰かが囁いた。「勇者様はまだ来ないのか」と。別の誰かが答えた。「辺境の村の子供だそうだ」と。
俺は、フードを深くかぶった。
『……勇者サマ』
「わかってる」
俺は布告から目を離して、北の空を見た。
雲の向こう、まだ見えない山脈のどこかに、それはもう建っているらしい。
朝には、山羊の結び方でゴブリンに勝った。それは本当だ。誇ってもいいと思う。
でも、あの布告の向こうにいるものに、綱と干し肉は通用しないだろう。
「王都まで、あと何日だ」
「……二日です」フィアが答えた。「ですがユート様、東の街道の分岐は、この町を出てすぐです」
東の街道。両親が足止めされている方角。
俺は、二本の道が分かれる方を、じっと見た。
(第5託につづく)
【天界からのお知らせ】
この物語の続きは、神々(あなた)の多数決で決まります。
勇者ユートが「フェルトの町を出て、どちらへ向かうか」を、A・B・Cから選んでコメント欄で神託をお授けください。
A. まっすぐ王都へ。動員令が出た今、勇者として正式に名乗り出るのが先だ
B. 東の街道へ寄り道する。足止めされている両親を、この目で確かめに行く
C. この町にもう一日留まる。泥まみれの早馬の兵をつかまえ、北で何が起きているのかを聞き出す
締切: 次回更新の前日 / 最多票を採用。同数・投票なしの場合は、ユートが自分で決めます。
