ひろゆき、漢文をなぜやるか?
江戸時代のインテリにとって、漢文は必須教養だった。これはおおむね正しい。ただし、彼らが朱子学の難しい言葉を暗記し、その知識量だけを競っていたと考えると、少し違う。
当時の漢文は、単なる外国語でも古典文学でもなかった。『論語』『孟子』『大学』『中庸』などを読むための言語であると同時に、歴史を学び、政治を論じ、公的な文章を書くための共通語だった。現代に置き換えれば、英語、法律、歴史、倫理、作文を一つにまとめたような教養である。漢文が読めなければ、知識人の議論に本格的には参加できなかった。
武士の教育では、儒学、とりわけ朱子学が標準的な位置を占めた。戦乱の時代が終わると、武士の仕事は戦闘から行政へ移っていく。領地を管理し、年貢を徴収し、裁判を行い、家臣団を統率するには、武勇だけでは足りない。社会をどのような秩序によって治めるのかという理論が必要になる。その役割を果たしたのが儒学であり、なかでも体系的に整理された朱子学だった。
朱子学では、学問は単なる知識の蓄積ではない。自分の心を正し、家を整え、その延長として国を治める。「修身・斉家・治国・平天下」という考え方である。個人の道徳と政治的統治が一つの道筋としてつながっていた。武士が儒学を学ぶことは、趣味として哲学書を読むことではなく、支配階級としての資格を身につけることだった。
江戸時代の初めから、すべての武士が熱心に学問をしていたわけではない。初期の武士社会では、弓馬や剣術の方が武士らしい能力だと考えられていた。ところが社会が安定し、藩の行政組織が整ってくると、読み書きができ、歴史に通じ、筋道を立てて意見を述べられる武士が必要になる。江戸中期以降、各地に藩校が設けられ、漢学は武士の制度的な教養になっていった。
藩校で行われていたのは、教科書の内容を一方的に覚えるだけの授業ではない。初めは、先生の読み方をそのまま声に出して覚える「素読」を行う。意味が十分に分からなくても、まず文章の型を身体に入れる。その後、教師の講義を聞き、学生同士で文章を読み合う「会読」や「輪講」へ進む。
会読では、同じ古典について複数の学生が解釈を示し、互いに質問し、批判し合った。どの一節を根拠にするのか。過去の歴史上の事件とどう結びつけるのか。その教えを現在の藩政に適用すれば、どのような結論になるのか。そこで試されたのは、暗記力だけではなく、読解力、記憶力、論理、文章力、発言能力だった。
漢詩や漢文を作る能力も重要だった。適切な古典を引用し、格調ある文章を書くことは、知識人としての力量を示した。藩主や上級武士の前で意見を述べる場合にも、儒学的な語彙や歴史的な先例を使う必要があった。知識人たちは、朱子学の教科書をどれほど覚えているかというより、漢籍を材料として、どれほど見事に考え、語り、書けるかを競っていたのである。
ただし、江戸の知的世界を朱子学一色に塗りつぶしてはいけない。朱子学が標準的な学問になれば、当然、その標準に対する批判も生まれる。伊藤仁斎は、朱子の理論を通して孔子を読むのではなく、『論語』や『孟子』そのものに戻ろうとした。荻生徂徠は、古代中国の言語や制度を研究しなければ、聖人の思想は理解できないと考えた。陽明学、国学、蘭学、医学、兵学なども発達した。
つまり、一流の知識人は朱子学を暗記して満足していたのではない。朱子学を共通の出発点としながら、それを批判し、別の読み方を提示し、新しい学問を作ろうとしていた。朱子学を知らなければ議論に参加できないが、朱子学をそのまま繰り返しているだけでも評価されない。標準を学び、その標準をどこまで乗り越えられるかが問われたのである。
これは現代の学問にも似ている。大学で既存の理論を学ぶのは、それを無条件に信じるためではない。共通の言葉と基礎知識を身につけ、先人がどこまで考え、どこに問題を残したのかを知るためである。基礎を知らずに独創性を主張しても、単なる思いつきに終わる。しかし基礎を暗記するだけなら、学問にはならない。
また、漢学は武士だけのものでもなかった。庶民の多くが寺子屋で学んだのは、日常生活に必要な読み書きや算盤だった。しかし裕福な商人、医師、僧侶、神官、豪農のなかには、私塾で漢籍を学び、武士以上の教養を身につける者もいた。江戸後期になると、学問の世界では身分秩序が部分的に崩れ始める。生まれが武士であることと、知識人として優秀であることは、必ずしも一致しなくなった。
漢文という共通言語があったからこそ、身分や地域の異なる人々が同じ古典を読み、議論することができた。長崎の蘭学者も、京都の儒者も、江戸の幕臣も、地方の藩士も、基本的には漢文という巨大な知識体系の上に立っていた。西洋の知識を紹介する場合でさえ、初めは漢学の語彙を使って理解し、説明することが多かった。
したがって、漢文は江戸のインテリにとって必須教養であり、朱子学は武士教育の標準課程だった、という理解は正しい。しかし、そこで競われていたのは朱子学の知識量だけではない。古典を正確に読み、適切に引用し、文章を書き、政治と道徳を論じ、場合によっては既存の解釈を批判する総合的な知性だった。
江戸のエリートにとって学問とは、飾りではなかった。武士が行政を担い、人を裁き、組織を動かすための訓練だった。漢文はその道具であり、朱子学はその基本文法だった。
朱子学を信じるかどうか以前に、それを知らなければ議論の席につけない。だが、知っているだけでも一流にはなれない。その共通教養を使って何を考え、どのような文章を書き、現実の政治にどう向き合うか。江戸のインテリが競っていたのは、結局、その人間全体の力量だったのである。
