蓮實重彦

私は若い頃、白人が作り出した素晴らしい文物に憧れた。ドイツ文学を学び、フランス哲学を読み、西洋の知的伝統に触れれば、人類の普遍的な知性に近づけるのではないかと思っていた。しかし、長い時間をかけて身に染みてわかったことがある。アジア人は白人にはなれないということだ。

それは人種的な意味だけではない。もっと根深い、文化的な意味での違いである。ヨーロッパの思想や文学は、何世紀にもわたる歴史、宗教、社会制度、生活習慣の上に成立している。翻訳を読み、原書を読み、研究したところで、その文化の住人にはなれない。理解することはできても、その世界を生きることはできないのである。

私は中国で、デリダが教祖のように崇拝されている光景をリアルタイムで見た。そこで感じたのは、知識の流通というものの冷徹な現実だった。フランスの哲学者は金のあるところへ行く。需要のあるところへ行く。もちろん思想的使命感もあるだろう。しかし、それと同時に市場の論理もある。求められるから供給するのである。

その構図は、明治時代から変わっていないように思う。日本政府はフェノロサを招聘した。西洋の知識人を教師として迎え、近代化の手本とした。日本はそこから多くを学んだ。しかし、その根底には「進んだ文明を持つ側が、遅れた側に文化を授ける」という構図があった。百年以上経った今も、本質的には同じことが繰り返されている。

もちろん私は、西洋文化に価値がないと言いたいのではない。価値があるからこそ学んだし、学んだからこそ限界も見えたのである。若い頃には、ニーチェやデリダやフーコーの思想の中に世界の秘密が隠されているように思えた。しかし歳を重ねるにつれて、それらは特定の歴史と文化の中で生み出された知的生産物であり、それ以上でもそれ以下でもないことが見えてきた。

私は今、ニーチェを偉大な思想家だとは思う。しかし、ニーチェを読んだからといって人生の真理がわかるとは思わない。ニーチェを崇拝する人々を見ても、特別に優れた認識を持っているようには見えない。結局のところ、哲学とは哲学者の仕事であり、人生を生きることとは別の問題なのである。

そして最終的に私がたどり着いた結論は単純だ。アジア人がヨーロッパ文化を学ぶことには意味がある。しかし、ヨーロッパ人になろうとすることには意味がない。どれほどニーチェを読み、どれほどドイツ語を学んでも、私はドイツ人にはなれない。どれほどフランス思想を理解しても、フランス人にはなれない。

若い頃には、それが敗北のように思えた。しかし今は違う。それは幻想から覚めたということだと思っている。自分が生きている社会、自分自身の経験、自分自身の言葉。それ以外に出発点はないのである。西洋文化を学んだ末に、私はようやくその当たり前の事実にたどり着いたのである。

ーーー蓮實重彦に対する評価は、僕の中では低い。結局、フランスが一番だという論理構成になるからだ。それは輸入業者は、輸入品のことをよく言うだろう?それが商売なんだから、という理屈は成り立つ。ならば東大の総長になぞならなければよかったんだ。輸入業者に過ぎないならば、それなりの地位で満足しろ、それは言えると思う。

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