「娯楽小説弁護」

チェスタトンの「娯楽小説弁護」は、原題を直訳すれば「一ペニー恐怖小説の弁護」である。一ペニー小説とは、主に労働者階級の少年たちに読まれていた、犯罪、冒険、決闘、怪人などを扱う安価な読み物だった。文学的には粗雑で、教育者や裁判官からは、少年を犯罪へ誘惑する有害な本として非難されていた。

チェスタトンは、この常識を逆転させる。少年が犯罪小説を読むから犯罪者になるのではない。少年が冒険小説を読むのは、現実の生活が冒険に満ちているからではなく、逆に冒険がないからである。退屈な使い走りの少年が、復讐や決闘や脱獄の物語を読むのは、それを現実に実行したいからではない。自分の生活には存在しない、自由で英雄的な世界を想像するためなのだ。

チェスタトンは、文学と物語を区別する。完成された文学作品はぜいたく品である。しかし、物語は必需品である。人間は芸術理論を学ぶより前から、架空の人物を作り、別の世界を想像し、英雄と悪人を戦わせてきた。子供が作る空想の世界を、バルザックと比較して構成が悪いと批判しても意味がない。物語を欲する衝動は、文学的完成度を判定する規則より古く、深いのである。原文は随筆集『The Defendant』に収録されている

しかも、安価な冒険小説は、必ずしも不道徳ではない。そこでは殺人は悪とされ、裏切り者は処罰され、勇気ある主人公が弱者を救う。筋は単純でも、文明を支える基本的な道徳を反復している。殺人が悪であるという判断は独創的ではないが、社会はそのような平凡な真理によって成り立っている。むしろチェスタトンは、退廃や自殺、不倫を洗練された思想として語る知識階級の文学の方が、よほど意識的に不道徳ではないかと皮肉る。

この議論の面白さは、大衆を上から救済しようとしないところにある。教養人は、労働者階級の少年を特殊な種類の人間として分類し、その読書を矯正しようとする。しかし、冒険に憧れるのは下層階級だけではない。上流階級の少年も海賊や騎士の物語を喜んで読む。ただ、上流階級の子供が読むと健全な想像力と呼ばれ、使い走りの少年が読むと犯罪の予兆と呼ばれる。そこにあるのは文学論というより、階級的な偏見なのである。

ただし、チェスタトンは、粗悪な娯楽小説が芸術的に優れていると主張しているのではない。文章が下手で、構成が乱雑で、同じ展開を繰り返すことは認めている。それでも、人間が物語を必要とする以上、粗雑であることだけを理由に存在を否定してはならない。悪い文学であっても、物語として果たしている役割がある。ここには、芸術的評価と社会的効用を分けて考える、かなり実際的な態度がある。

そして、この文章は明らかに、チェスタトン自身が書く小説の弁護でもある。

チェスタトンは、難解な心理小説を精緻に組み立てるタイプの作家ではない。ブラウン神父が奇怪な犯罪を解き、常識が逆転し、日常の街角に突然、神話や騎士道が現れる。『木曜日だった男』にしても、探偵小説、幻想小説、思想小説、ナンセンス文学の境界を平気で踏み越えていく。彼自身が、犯罪、追跡、変装、陰謀、奇跡といった娯楽小説の道具を好んで使った作家である。

「娯楽小説弁護」が書かれた時点では、後の代表的な小説すべてを直接弁護したわけではない。しかし、ここにはすでにチェスタトン自身の創作原理が表明されている。娯楽的な形式は、思想の敵ではない。むしろ、抽象的な思想を生きた経験に戻すために必要なのである。善悪、秩序、自由、信仰といった大問題も、決闘や犯罪や謎解きの形にすれば、読者は頭だけでなく想像力によって理解できる。

チェスタトンの小説は、娯楽小説の衣装をまとった思想劇である。同時に、思想を伝えるために娯楽の衣装を借りただけでもない。謎が解ける快感、追跡の興奮、世界が一瞬で反転する驚きを、彼自身が本気で愛している。娯楽を低級な手段と見なしていないからこそ、思想と冒険が一つの作品の中で自然に結びつく。

現代でいえば、ライトノベルやウェブ小説、漫画、ヒーロー映画に対しても、同じ批判が繰り返されている。類型的で、現実逃避的で、文学的価値が低いという。しかし、人間は現実だけでは生きられない。別の人生を想像し、善悪が明快な世界でいったん呼吸し、再び日常へ戻る必要がある。作品の完成度を批評することはできるが、物語を欲すること自体を未熟さとして否定することはできない。

チェスタトンは娯楽小説を弁護することで、読者の想像力を弁護した。そして同時に、娯楽の形式で哲学と信仰を語ろうとする、自分自身の文学を弁護したのである。文学はぜいたく品かもしれない。しかし物語は必需品である。この区別には、娯楽作家チェスタトンの誇りが表れている。

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