ゴージャス

私は批評文というものを読んでいて、しばしば奇妙な感覚を覚える。批評家たちは何か途方もなく深遠なことを語っているように見える。しかし冷静になって内容だけを取り出してみると、実はそれほど特殊なことを言っているわけではない場合が少なくない。

たとえば浅田彰や蓮實重彦である。彼らは間違いなく優れた知識人だった。しかし彼らが社会に与えた衝撃は、個々の命題の正しさだけによって説明できるものではない。彼らの文章には独特の緊張感があり、読者を圧倒する速度と密度がある。読者は議論そのものだけでなく、その語りの運動に巻き込まれていくのである。

小林秀雄も同様だろう。彼の文章を分解すると、驚くほど常識的な結論に到達することがある。しかし読者はその結論を読むために小林を読むのではない。そこへ至る思考の軌跡、比喩の選択、文章の呼吸、そのすべてを含めた文体を読んでいるのである。

だから私は、批評文の価値は必ずしも「何を言ったか」だけでは決まらないと思う。むしろ「どう言ったか」の比重が極めて大きい。極端に言えば、批評家は思想家である前に文体家なのだ。

もちろん、これは内容が不要だという意味ではない。空虚な文章は長く生き残らない。しかし内容だけであれば、後から要約することもできるし、他人が別の言葉で説明することもできる。ところが文体だけは移植できない。要約した瞬間に消えてしまう。

そして、その文体は技術だけで作られるものでもない。膨大な読書、長年の思索、言葉との格闘の積み重ねが沈殿して初めて生まれる。だから読者はそこに畏怖を感じるのである。目の前の文章が美しいからではない。その背後にある何十年もの知的蓄積を直感的に感じ取るからだ。

結局のところ、批評家とは新しい真理を発見する人というよりも、既知の事実や感覚を誰にも真似できない文体へと変換する人なのかもしれない。同じ結論なら誰でも後から言える。しかし、その結論を一つの時代の言葉として定着させることはできない。そこに批評家の仕事があり、売文家としてのプロフェッショナリズムがある。

批評とは思想の競争であると同時に、文体の競争でもある。そして歴史に残る批評家とは、多くの場合、誰よりも豪奢な文体を獲得した人々なのである。

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