些細な幸せに気付けるよう
朝、目覚めると隣で夫が眠っていた。
夫はたいてい私よりも先に起きて、リビングに降りてしまっている。
だから、少し珍しい。
ちょっかいをかけてみるが、起きる気配はない。
ぐっすり眠っている。
幸せだな、と思う。
私の好きな人が、私の隣で安心して眠っている。
出会ったころは、夫もまだ二十代だった。
今ではもうアラフォーで、目の周りの皺も増えたなあと、その顔を眺める。
髪をかき分けてみたり、眉毛を触ってみたりして、
睫毛が長いなあとか、全然起きないなあとか、可愛いなあとか思ったりして、
また、幸せだなあと思う。
大切な人が安心できる場所は私の隣で、私もまた然りで。
私たちには安心して暮らせる家があって。
これ以上、なにを求めるのだろう。
幸せって、結局こんな些細なことなんだろう。
働いていたとき、私はこんな幸せを感じとれていなかった。
休職して、かなり体調が戻ってきたと感じる今、
ようやく、些細な幸せを正しく幸せだと感じられるようになったと思う。
幸せを正しく感じるためには、やはり、心に適切な余裕がある状態でなければならないと感じる。
日々仕事や家事や育児に追われ、いつ破綻してもおかしくないような心では、
きっと些細な幸せは拾いきれないんじゃないかな。
幸せは幸せと気付かないまま、日常として過ぎて行ってしまうのだろうと思う。
私は、仕事をしている間もずっと幸せだったはずなのに、
それを感じとることができず、もう生きていたくないと思っていた。
先日、『罪と罰』からある一節を引用して、
どんなにつらい状況でも、人間は生きることを望んでしまうし、
生とはそれだけ強烈なものであると書いた。
これに関して二言はないのだが、
そうは言いつつ、つらい人生が耐えきれず、死を選んでしまう人もいる。
私は、自殺に対して否定はしない。
それを選んだその人だって、簡単な決断じゃなかったはずだ。
だからその人の選択を否定したくない。
しかし、人は強烈に生に終着するにも関わらず、
死の恐怖はさらに強烈であるにも関わらず、
それでも死を選んでしまう人がいる。
そんな世界はあってはならないと思う。
生への執着を失ってしまうほど、
人は追い込まれるべきではない。
すべての人が、正しく幸せを受けとれる、
そんな世界でありますように。
