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至道無難「即心記」より

この四月というのは自分にとって厄介な時期である。春先の季節の変わり目は誰しも心が不安定になるものだが、その時期はそれなりに活力があっても、すっかり春になったこの時期に脱力してやる気がなくなる。世をはかなんだりして、何もできなくなる。

ちょうど野球が始まる時期で、ぼんやり野球を観たりしている。最近、日本の野球にほとんど興味を失ってしまったのだが、ヤクルトの池山監督って面白いね。
選手達と一緒に一喜一憂して、ベンチで大騒ぎをしている。一方、バントを使わなかったり、投手起用がかなり独創的で、実はかなり頭を使っている。

キハダというキャラが猛烈に強い外国人がクローザーをしていて、ピンチの際に池山監督がマウンドに行って、「あと一人だからグッドラック」と激励して、二人でグータッチしていた。
グッドラックって、どんなアドバイスなんだよ。でも、キハダ投手は素直に聞いてうなずいて、直後に渾身のストレートで抑えて見事セーブを果たしたのだった。池山監督も大喜び。

そんなくだらない春先の過ごし方をしているのだが、至道無難「即心記」の冒頭をちょっと紹介してみたい。なんとなく今の気分にピッタリで、とてもいい文章で昔から好きなので。

至道無難は、江戸時代初期の臨済宗の僧侶である。「至道無難」というのは、禅の第三祖の僧璨の「信心銘」の冒頭部分にちなんでいる。

至道無難、唯嫌揀擇
大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
すべてははっきりと明らかになる

至道無難も禅の人だけれども、とても日本的な感覚もあってよい。以下が、その著書の「即心記」の冒頭である。最後に私のテキトーな現代語訳をつけておこう。


しれば迷い 知らねば迷う 法の道 何か仏の 實なるらん 
   この歌心明らかならば、大道あらわるべし。

一 佛眼開き見るに、日本の衆生は佛にちかし。悪気少なき故なり。悪気というは、身を思うなり。迷いの根本なり。しかも我が身にあらず。それを我がものと思うは、至りてあさましくかなしき事なり。誰も知る事なれども、死するなり、病むなり、貧苦をうくるなり、これ我物にあらざる印なり。かかる浮世に生を受けて、苦しみ多きをわきまえず、命長からん事を願う。大方人を見るに齢七十に及ぶは稀なり。

一 ある老人物がたりを聞くに、哀れの多きを書きとどむるもおこがましけれど、昔の友は先立ち、今の人に交わらんとすれば穢まれ、若きは去って座に無し、秋の夜長きに、眠る事なく、帰らぬ昔を思い、知らぬ行く末を願う。地獄、餓鬼、畜生、修羅を住処として巡る事のかなしさよ。
今はひたすら佛道を学ばんと思うとて、予に向かい、涙を流して尋ねるを、いと哀れに思い、宗旨を問えば、禅と答う。若年よりこの道こころざし深しと云う。
予、大道を問えば、中々念仏唱え数珠つまくりいとあやしくて、如何様の人に法を尋ね給うと云えば、古は法門など習いしが、十五年此の方は、いやいや、法門云いても、只今身まかり行く末知らぬは大きなるあやまりと思い、ある僧に会い奉り、死して行く末を尋ねしに、悟って知ることなり、悟らんとおもはば、身の業尽くすべし、業つくさんと思はば、経読み念仏唱えよと、仰せに任せて勤めるという。予云、只今死して何方へ行く、如何様にならんと思い給うと問えば、極楽へ行き仏にならんと答う。
極楽は何処ぞと問えば、業尽きて現われんと教えに任せ、かようかようと答う。
予また問う、業尽きぬ先に死しては何となるべきと問えば、答えなくして、涙流し、手を合わせ、教えたまえと云う。
哀れに思いて、打ち向かい、萬事は皆心の為す事なり。かれ、さなむと云う。心のもとは何かあると問えば、何も無し、と答う。
予云、それこそ直に極楽世界、それこそ直に佛、それこと我が宗の悟なり。常に守り給えと云えば、さすが常々心掛けし印にや、生もなし死もなし、萬物一もなし、なしと思う事もなしと悦び、手を合わせ拝む。
禅は第一悟りを先にして、悟りみまかせ修行すれば、日々夜々安楽なり。疑う事なかれ。身の業尽き果て悟るは、尤もにしていたり難し。悟りを先にして身の業尽くすは、安して安し。かるがゆえに日本は身を思ふ事かるし。さて佛にちかし。身無ければ直に佛なる故也。


(現代語訳、私訳)

知れば迷い 知らなくても迷う 
仏法の道 何が仏の真実なのだろうか

この歌の心が分かれば、真実の道もあらわれるだろう。

一、仏眼が開いて見ると、日本の一般人は仏に近い。悪い心のクセが少ないからである。悪い心のクセというのは、自分の身を思うことである。それが迷いの根本だ。だが、自分の身は本当は自分のものではない。それを自分のものと思うのは、きわめてあさましくて悲しいことである。

誰でも知っていることだが、人は死に、病気をし、貧苦を受けるものだ。自分の身が自分のものではない証拠である。そういう浮世に生まれて、苦しみが多いのをわきまえもせずに、長生きを願ったりする。ほとんどの人間は七十まで生きられないというのに。

一、ある老人がこう言う。「自分の人生の哀れさを書いてもしかたないのだが、昔の友は先立ち、今の人たちに交わろうとすると疎まれ、若い人たちは座を去ってしまう。秋の夜は長いが、眠ることもできず、帰らない昔のことを思い、分からない行く末を考えてしまう。地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界を巡るのは悲しい。今はただ仏道を学びたいと思う」と、私に向かって涙を流して尋ねるのを気の毒だと思い、宗旨を聞くと、禅宗だと言う。若い頃から深く志してきたと言う。

私が、その真理は何かと聞くと、念仏をとなえて数珠をくる様子がおぼつかなくて、「どういう人に法を聞いたのか」と聞くと、「昔は仏説も学びましたが、ここ十五年はいくら学んでも、死んでどうなるかも分からないのは誤りだと思い、ある僧に会って、死んだ末のことを尋ねると、『それは悟ると分かることである、悟るには自分の悪業をなくさなければならない、その為にはお経を読んで念仏しなさい』と言われたのでその通りに努めています」と答える。

私が、「それでは死んでどうなると思うか」、と聞くと、「極楽に行って仏になるはずです」と答える。
「極楽はどこにあるのか」と問うと、「悪業が尽きた時に現れると聞いたのでそう努めています」と答える。
私が問うて、「悪業が尽きる前に死んでしまったらどうなるのか」とさらに言うと、答られずに涙を流して、手をあわせて、どうか教えてくださいと言う。

かわいそうに思って、老人にむかって「すべては心がおこなうことなのですよ」と言うと、老人も「そうですね」と答える。
「心の根本になにか存在しますか」と問うと、老人も「何もありません」と答える。

「それ(何もないこと)こそが極楽世界、そのまま仏の姿、それこそ我ら禅の言う悟りなのですよ、それを常に守って保ち続けなさい」と言うと、さすがに普段から仏道を志してきた証拠に、「生も死もありません、すべてのものも本当はありません、それをないと思うこともないのですね」と、よろこんで手をあわせておがむのだった。

禅はまず先に悟ってしまって、その悟った状態で修行すれば、日々心は安らかになる。疑ってはいけない。悪業が尽きてから悟るのは、とても難しいことである。悟りを先にしてから、悪業をなくしてゆく方が、安らかだし容易である。こういうわけで、日本人は自分の身を思うことが軽いのである。すなわち、もともと仏に近いのである。我が身がないということが、そのまま仏になるということなのだ。


基本的には禅の話だけれども、そう考えなくても実践的に生きるヒントになる話なのではないかと思う。
ヤクルトの池山監督のような、あらゆる良き日本人に届きますように。


記事用にgeminiに作成してもらったイメージ画像です。素晴らしい出来です。

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