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人生と芸術の「終わり方」

アメリカのクラシック音楽評論家、デヴィッド・ハーウィッツさんが、YouTube番組で、

「欠点はあるけれど、それでも愛さずにはいられない傑作 Flawed Masterpieces (That We Love Anyway)」

というシリーズを始めていて、これが面白いんですね。


7月20日の回では、モーツアルトの交響曲39番を取り上げていました。


39番の何が欠点かと言えば、あの終わり方ですね。

フィナーレのぷつんと切れるような終わり方。あれが盛り上がらなくて困る。


ハーウィッツさんの言うとおり、モーツアルトは、ベートーヴェンと比べればもちろん、ハイドンと比べても、曲の「終わり方」に無頓着でした。

39番も、再現部を2回繰り返して終わり、という無頓着さ。

「2回繰り返して終わり」という形式を満たせば、満足してたんですね。


現代の演奏家は、この「2回繰り返す」反復の形式が、今の観客に退屈だろうと思うから、いろいろ工夫してるのはご承知のとおり。反復を省略することも多い。

ベートーヴェン以降の作曲家は、一般にこれに自覚的で、「終わり方」についてさまざまな工夫を重ね、コーダ部を充実させました。

ロマン派以降になると、もう「終わり方」に悩みすぎて、ノイローゼ的なものさえ感じます。



芸術というのは、ある「ドラマ」を人に感じさせ、その「ドラマ」を体験した満足感を、人々の記憶に残さなければならない。

そのために、「終わり方」が非常に重要になります。


ダニエル・バレンボイムが言っていたように、ある曲を聴くと、人は「自分とは別のある人生」を体験し終えたような感慨を覚える。

そこで芸術家は、人を「ドラマ」に没入させた後、そこから「引き離し」て、「ドラマ」全体を俯瞰する境地で、喜びを覚えるように導かなければならない。

これがなかなか難しいんですね。


最終的な満足は、その「別の人生体験」から引き離し、再び「自分の人生」に戻したときの意識のありようにかかわります。

終わり方は、その「引き離し」に当たります。


映画はわかりやすい。

よくあるのは、街を俯瞰するようなシーンから始まって、登場人物たちの場所にフォーカスする。そしてドラマが済むと、再び俯瞰シーンになって映画が終わる、というパターン。

観客の視点を「物理的」に引き離して、物理的にドラマを「俯瞰」させます。

そうすると、自動的に、何か芸術的感興のようなものが生まれる。


こういう芸術のパターンは、文学にも、絵画にもあるんだろうと思いますが(絵画の場合は、構図の完結性と、それを見る視点との間に、「終わり方」の美学があるのでしょう)、効果的な「終わり方」は、永遠のテーマですね。決定的な解答はない。


まあ、最近の映画のように、延々と長時間ドラマを引っ張って客を疲労させ、「とにかく早く日常に戻らせてくれ」と思わせ、「やれやれ、やっと終わってくれた」という「満足」を与える、という手法もある。

小説でも映画でも、長ければ長いほど、人は「自分の時間を無駄にした」と思いたくないから、評価が甘くなる傾向がありますからね。


現代のポップ音楽では、「終わり方」は、もうほとんど問題になりません。

それが「芸術」との大きな違いだと思います。

ポップな世界で重要なのは「始まり方」、つまり「キャッチ」ですからね。

人の関心をキャッチすれば勝ちで、終わりは、最悪「フェイドアウト」すればいいんだから。


私がいた出版の世界でも、文学や評論もかなりポップ化していて、「キャッチ」さえすればいい、という考えはありました。

商売としては、本は買わせれば勝ちであって、読み終えてもらう必要はない。

先払いの松屋方式で、後払いの吉野家ではないので。

だから、書き出しとか、目次とか、序文とか、「始まり方」の編集に力を入れろ、と教えられました。



まあ、そんなことはどうでもよろしい。

山田五郎さんが亡くなったねえ。

とはいえ、私はまったくご縁がありませんでしたが。


でも、同世代ではあったから、自分もそろそろ「終わり」が近い、と思わざるを得なかったですね。


山田五郎さんという方は、いい人だったらしく、XなどのSNSでも、彼をしのぶ人たちの哀悼の言葉に真実味がありました。

人生の「終わり方」として、とても見事で、美しいと感じました。


でも、山田さん自身は、その自分の人生の美しい終わり方を、自分で俯瞰して見ることができない。

これは、いかにも残念なことに思うんです。


これは人間の、残念な条件ですね。

他人の人生は「芸術」として味わうことができるのに、自分の人生を、同じように味わうことができない。

自分の「終わり方」を見届けることができないからです。


それは、山田さんのような芸術の理解者には、理不尽に思えたのではないでしょうか。

だから山田さんはカトリックに入信して、天国から「俯瞰する」視点をあらかじめ確保した、のではないか、とちょっと思ったんですね。


人間は、芸術作品の「終わり方」はいろいろ研究できるけど、自分の「終わり方」はどうしようもない。

宗教を信じるしかない。

そろそろ「終わる」立場としては、切実な問題ですね。

そんなことを山田さんの死で感じました。





<参考>


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