なぜ音楽から「美しいメロディ」が消えたのか
なぜ「長いギターソロ」が消えたのか
今回の記事を考えるきっかけになったのは、昨日の記事「体験的『日本人の洋楽離れ』 1990年代に起こったこと」に、tjknjさんから、以下のコメントをいただいたことでした。
この話を聞いて、下記のギターソロの歴史に関するYoutube動画を思い出しました。90年代のオルタナ時代には、ギターソロが衰退したことが解説されています。(中略)私の感想ですが、まさに”オルタナティブ”なロックが人気が出ると同時に、メインのロックは人気が衰えていったように思います。
(tjknjさんコメント 2026/7/30)
Journey of Guitar Solo (THE INSTRUMENTALS - Episode 1)
この動画では、ロック創成期から始まり、エレキギターが前面に出てきた60年代、そしてギターソロ全盛の70年代を経て、ギターのテクニックが極限に達し、90年代以降に後景に退いていく歴史が「実演」されています。
70年代にアマチュアバンドのリードギターをやっていた私は、まさにギターソロ全盛期を体験してますから、実感的にもよくわかります。
なぜ、ロックから「長いギターソロ」が消えたのか。
それについては、「タイパ」意識の強まりとか、いろいろ分析されていると思います。
まあ、今の感覚からは、60年代の終わりから70年代に、なぜあんなに長いギターソロが必要だったのか、わかりませんね。
私の意見は、こうです。
昨日も述べましたが、ロックや、広くポップ音楽全体では、かつて「ノート」(旋律)が主役でしたが、90年ごろを境に「ビート」(リズム)が主役になりました。
かつてロックでは、「ブルース」の音律が、その本質とされました。
そこで、「ブルーノート」の3度フラットとか7度フラット感を、チョーキングによって出せるのは、標準的構成のバンドではギターだけでした。
だから、ロックの本質である「ブルース」感を、客にたっぷり味わわせてやるため、長いギターソロが必要だったのです。
しかし、90年くらいを境に、ロックの本質は「ビート」だと、みんな認識するようになりました。
そしてその転換は、トーキング・ヘッズが「リメイン・イン・ライト」でアフリカのリズムを導入したように、オルタナ、ニューウェーブ系のバンドによって主導されました。
だから、tjknjさんのいう、「”オルタナティブ”なロックが人気が出ると同時に、メインのロックは人気が衰えていった」というのは、その通りだと思います。
ロックの本質が「ブルース」だというのは、当時の白人ロッカーの一種の「正統史観」だったわけですね。
そういうロック観、ブルース観で、長いギターソロをやっていたのは、だいたい白人です。「3大ギタリスト」とか。
でも、その白人のブルース感、黒人音楽感は、ちょっとズレていました。(これは昭和の時代、「演歌は日本人の心」みたいに言われていたのと、ちょっと似ています。歴史的根拠はあまりありませんでした)
80年代から90年ごろを境に、そのかつての「正統史観」が、転換します。「ノート」(旋律)から「ビート(リズム)」へ、と。
90年代以降は、ブルーノートの旋律を弾くギタリストより、カッティングのうまいギタリストがカッコよくなる。
ダフトパンクが共演するのは、黒人のナイル・ロジャーズであって、決してエリック・クラプトンではないわけですね。「ビート」が「正統的」になっていきました。
史上最も美しいメロディとは
ロックというポップ音楽の一ジャンルで起こっていることは、音楽全体でも起こっている気がします。
つまり、音楽に対して、ビートによる「グルーグ」感を求める傾向は、現代音楽やクラシックの演奏にも見られます。
代わりに、「旋律」に美を求める傾向が、後退しているように思います。
「ビート」と「メロディ」には、何か並び立たないような、対立する要素があるのではないか、という気がするんですね。
現代のように「ビート」が強調される時代になると、「旋律」が後退する。
そんな法則があるのではないでしょうか。
ここで、メロディとか、旋律とか、「チューン(節:ふし)」とか、あるいは「歌」と言ってもいいんだけど、それぞれ違うというような議論には立ち入りたくないので、以下、「メロディ」に統一しますが。
今だって、「メロディ」がなくなったわけではありません。今のポップはあんまり知らないけど、「美メロ」みたいな言葉もあるし。
でも、私が思うメロディは、息の長い旋律であって、むしろ「節」に近いかもしれない。
具体的にどういうものか、実例で示したい。
ここで、音楽史上、最も美しいメロディは? と聞かれれば、私も答えに迷うところです。
でも、音楽史上、最も美しいメロディを多く書いた作曲家は? と聞かれれば、私の中では答えが決まっています。
化学者で、アルバイトで作曲をやっていた、アレクサンドル・ボロディンです。
ボロディンの「美メロ」3連発
ボロディン「夜想曲」
ボロディン「だったん人の踊り」
ボロディン「中央アジアの草原にて」
ボロディンは、私が思う「美しいメロディ」の最大の創造者ですね。
あと、美しいメロディの象徴として、私の心の中にいつもあるのはーーたぶん多くのクラシックファンにとってもそうでしょうがーーチャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」です。
チャイコフスキー「ロミオとジュリエット」愛のテーマ
私にとって、美しいメロディを書く人が、なぜロシア系なのか、よくわかりませんが。
独墺系の大作曲家は、必ずしも美しいメロディを書くのはうまくなかったですね。
その中でも、シューベルトはシューマンより、リストはショパンより、うまかったかもしれませんが。
でも、ボロディンにはかなわない。
独墺系の音楽を正当化するために作られた音楽理論は、なんとなく「メロディを書くのが下手な作曲家」を正当化するためのものになっている。ベートーヴェンとか。ブラームスとか。
ボロディン的なメロディというは、AIで作れるものなのでしょうか。
そういう興味もあります。
「ビート」と「メロディ」の対立
まあ、それはともかく、こういう「美メロ」を聞くのが、かつてはクラシック音楽を聴くことや、広く音楽を聴くことの楽しみだったはずですよね。
それが、どっか行っちゃったんじゃないか、と。
主題とその展開がどうこうなんて、どうでもいいです。
いいメロディが聴きたい!という欲求のほうが自然でしょう。
ポピュラー音楽でもかつてはそうだったはずなんですね。
でも、今は「踊れるかどうか」のほうが重要です。
現存の作曲家で、最も多く印象に残る「メロディ」を作曲しているのは、ポール・マッカートニーかもしれません。
でも、彼にしても、私の基準で「美しい息の長い旋律」に該当するのは、「イエスタディ」くらいですね。
彼も、60年前の「イエスタディ」を超えるメロディを、その後も書けたかどうかは怪しいでしょう。
彼にしても、長いキャリアの中で、ポップ音楽界で「ビート」が支配的になるにつれて、メロディが作りにくくなったのではないか、という感じはするんですね。
ビートが強調されるほど、メロディは寸断され、「息の長い」メロディが作りにくくなる、という法則があるんじゃないか、と。
それで、かつてボロディンの書いたようなメロディは、ポップ界でもシリアス界でも、現代では生まれにくくなったのでは、と。
これは、もっと大きく言えば、現代人の時間感覚や、生活のリズム感のようなものともかかわっているかもしれません。
アンジーヌ・ド・ポワトリーヌの場合
いや、こういうことを考えた、もう一つのきっかけは、私のひいきのカナダのインディーバンド、アンジーヌ・ド・ポワトリーヌのフジロック公演を、ネットで見たことでした。
彼らの演奏は日本でも好評だったようで、それはよかったのですが。
でも、彼らの演奏を聴いていて、「ビート」と「メロディ」の衝突ということを、非常に強く感じたんですね。
彼らの魅力の一つは、微分音ギターが奏でる微分音メロディ(通常の半音よりさらに微妙な音程)なのですが、それが強いビート感のために、十分に生かされていないと感じました。
微分音による、「息の長いメロディ」を聴きたいと思うのですが、ルーパーを使った反復するビート感では、それを作り出すのが不可能なんですね。
彼らの音楽は、「長いギターソロをしない」というより、「長いギターソロが構造的にできない」ようになっていると思います。
変拍子などの工夫で、うまく単調さから逃れているとはいえ、「息の長いメロディの不足」をやはり感じてしまいました。
その点で、彼らなんかがもう一段、音楽を革新してくれたら、ポップ音楽もさらに豊かになると思いました。
Arigato Japan!(Angine de Poitrine 2026/7/26)
<参考>
