電車とバスが死ぬほど嫌い
電車とバスが死ぬほど嫌いだ。以上。
別に、移動が嫌いなわけじゃない。むしろ散歩は好き。歩いている途中で立ち止まり、写真を撮り、知らない道に入り、思いがけない飲食店を見つけて入ってみる。美味しいこともあるし、盛大に外すこともある。楽しい。
散歩には、引き返す自由がある。立ち止まる自由がある。目的地を忘れる自由がある。
僕が好きなのは、目的に向かうことではなく、目的からそれること。
電車とバスだけが嫌いだ。
目的地に向かうために正しいルートを選び、正しい時刻を確認し、正しい乗り場へ向かい、正しい方向の車両に乗り、正しい場所で降りなければならない。移動しているというより、移動のための試験を受けさせられている気分になる。
特にバスは最悪だ。
日本のインフラで最も最悪なのがバスである。
とにかくUIが終わってる。乗り方、降り方が終わってる。
前乗り後ろ降り。後ろ乗り前降り。先払い。後払い。均一料金。距離制料金。整理券。ICカード。両替機。現金不可。乗車時タッチ。降車時タッチ。乗車時も降車時もタッチ。

地域によって、会社によって、路線によって違う。規格ぐらい統一しろよバカ。初見殺しで攻略できるわけがない。チュートリアルのないゲームをやらされている。失敗してもリトライできない、攻略サイトもない。あるのは、後ろに並ぶ乗客の圧と、急かすようにこちらを見ている運転手と、当然のように正解ムーブをこなしていく地元民たちである。
移動したいだけなのに、試験されている。
京都のバスは本当に人生最悪の体験だった。あれほど観光客を呼び込む都市でありながら、バスの体験はどこまでもローカルで、外から来た人間にやさしくない。寺社仏閣より先に、まずバスがこちらを拒んでくる。乗れるのか。払えるのか。降りられるのか。旅情はどこへやら。
電車も別の意味で最悪だ。
電車は難解な箱である。僕にとって公共交通への不信の原体験のひとつは、各駅停車と急行だった。幼いころの僕は、その違いを知らなかった。だから当然、早く出発する電車が早く着くと思っていた。
先に出た電車が、あとから来た電車に追い抜かれる。ジリジリと迫ってくる時間のリミット。汗が止まらない。時間に従っているつもりだったのに、実際には路線図と種別という、知らない者には見えないルールに従わされていた。そして僕は遅刻した。あのとき、電車というものは「乗れば目的地に連れていってくれるもの」ではなく、「正しい知識を持った人間だけを正しい時間に到着させるもの」なのだと知った。クソが。
しかも路線図が読めない。
個人的な問題なのかもしれないが、あれは地図ではない。都市を抽象化した暗号である。色分けされた線が絡まり、駅名が並び、乗り換え駅が強調され、どこかへ行ける可能性だけが無数に提示されている。こちらが知りたいのは可能性ではない。いま自分がどこへ行けばいいのか、それだけなのに。

山手線ゲームなんて無理だ。駅名を順番に言う以前に、そもそも山手線が自分の身体感覚として入っていない。
乗り換えというクソみたいな仕様。
乗り換えとは、一度信じた乗り物から降り、また別の正解を探しを直すゲームである。ホームを探す。階段を上がる。看板を見る。人の流れを読む。反対方向ではないか確認する。急行なのか各停なのかを見る。あと何分で来るのかを見る。そのすべてを、疲れた身体で、他人の速度に巻き込まれながら行わなければならない。油断を許さない。ひとつ間違えれば一日が破綻する。
移動しているというより、都市に知能を試され続けている。とにかく煩わしい。
聞いてください、新幹線も終わってます。
新幹線そのものはまだいい。乗っている間は快適だし、座席は広いし、速いし、窓の外は流れていくし、こちらはただ座っていれば目的地に近づいていく。本も読めるし映画も観れる。移動手段としてかなり旅情がある。
問題は、その快適な旅が終わったあとにある。
JRの直通改札に向かう。切符を入れる。Suicaをタッチする。そういう流れだと思っている。ところが、なぜか切符だけが吸い込まれ、Suicaはタッチできない。結果、降りた駅で駅員に説明し、払い直すことになる。
バカなのか。

旅の終わりに、なぜこちらがシステムの不備を説明しなければならないのか。公共交通は、乗っている時間よりも、その前後の接続部分で人間を殺しにくる。
そして何より最悪なのは、これらがインフラとして欠かせないことだ。
日本では電車やバスが嫌いなら乗らなければいい、で済まない。会社に行くにも、学校に行くにも、病院に行くにも、映画館に行くにも、誰かに会いに行くにも、まず移動しなければならない。移動しなければ生活が始まらない。
「家が駅から遠い。」たったそれだけで、人生の難易度が跳ね上がる。職場の選択肢が減る。学校の選択肢が減る。遊びに行く気力が減る。夜遅くまで出かけられなくなる。バスの本数を気にし、終電を気にし、雨の日の移動を気にし、タクシー代を気にする。
幸いなことに、僕は駅近にしか住んだことがない。だから駅から遠い家に住むしんどさを、当事者として語る資格はあまりない。が、しかし、それでもその不便さは自分の生活に侵入してくる。彼女や友達の家が駅から遠い。すると、結局こちらが車を出すことになる。迎えに行き、送り届ける。そうなると当然、お酒が飲めない。
たったそれだけのことに聞こえるかもしれない。けれど、これは酒を飲むか飲まないかの話ではない。「帰りの足」を誰が引き受けるのかという話なのだ。
公共交通が弱い場所では、人間関係の中に運転手が発生する。誰かが誰かを迎えに行き、誰かが誰かを送る。その誰かは、眠くても運転しなければならないし、飲みたくても飲めないし、帰り道の時間を計算しなければならない。バスや電車の不便さは、消えているのではない。ただ、別の誰かのハンドルに移されているだけだ。
駅から遠いだけで人生は詰むし、この電車とバスを前提にした都市のあり方、日本のあり方が、はっきり言ってクソ。
都市は、移動できる人間を標準として設計されている。駅まで歩ける人間。路線図が読める人間。乗り換えに耐えられる人間。時刻表を理解できる人間。知らない土地のバスにも乗れる人間。疲れていても、眠くても、雨が降っていても、当然のように正しいホームへ向かえる人間。
そういう人間だけを「普通」と呼び、それ以外を置いていく。
駅のない町はゆっくりと衰退していく。人が出ていく。店が消える。病院が遠くなる。学校も遠くなる。映画館や娯楽など最初からない。そしてそこには、移動の自由を持たない人たちが残されていく。高齢者、車を持てない人、日本語の交通案内を瞬時に読めない外国人、あるいは都市の中心部に住む金銭的余裕のない人たち。
都市は、便利な場所から順に人生を配っている。
駅近、それも急行が止まる駅の近くに住む人間だけが、仕事の選択肢を持ち、趣味を持ち、遊びに行き、映画を観に行き、本屋に寄り、展示を見て、夜遅くまで誰かと話すことができる。それ以外の場所に住む人間は、同じ一日を生きているようで、最初から使える時間が違う。
文化資本は、まず交通資本である。
郊外の一戸建て4LDKより、駅近の1Kの方が勝ち組なのである。これは極端なことを言っているのではない。部屋が広いことよりも、すぐ電車に乗れることの方が、現代でははるかに“広い場所”で生活できる。庭があることより、終電を気にせず帰れることの方が豊かだ。自分の部屋があることより、仕事終わりに映画館へ行けること、本屋に寄れること、人に会えることの方が、人生の可能性を増やす。
家の広さは生活の内側しか広げない。
しかし駅の近さは、生活の外側を広げる。
多くの人は、いまだに住居の価値を「広さ」で考えている。何LDKか。庭があるか。駐車場があるか。収納があるか。
それよりも、その家からどこへ行けるのか、その家へ何時に帰ってこられるのか、その家に住むことで何を諦めるのか、ということはあまり語られない。
住居の価値は、部屋の数だけでは決まらない。玄関を出たあとの自由度で決まる。
だから、僕は電車とバスが死ぬほど不快だ。
関わりたくもないのに、それらが人生の可能性を配分しているからだ。
電車が嫌いな理由はそれだけではない。
電車に揺られていると、自分の意志で移動している感じがしない。切符を買ったのも、乗る電車を選んだのも、自分であるはず。しかし、一度車内に入ってしまうと、もう自分にできることはほとんどない。線路は決まっていて、途中で降りることはできても、進路を変えることはできない。電車は僕を乗せたまま、僕の意志とは別の巨大な予定表に従って進んでいく。
そのとき僕は、自由意志で移動しているというより、運命に運ばれているような気がする。
電車は運命的な乗り物である。
自分で選んで乗ったはずなのに、扉が閉まると、もうこちらの意思はほとんど関係なくなる。線路はすでに敷かれている。停まる駅も決まっている。追い抜かれる場所も、待たされる時間も、乗り換えの可能性も、こちらが生まれるずっと前から決まっていたような顔をしている。その中に、僕の身体だけが後から乗せられ、運ばれる。
電車は、自由を与えない。あらかじめ敷かれた運命の中から、正しい一本を選ばせる箱である。
電車に取り憑かれた作家がいる。庵野秀明と新海誠である。
庵野秀明にとっての電車は、内面へ向かう運命である。『新世紀エヴァンゲリオン』に何度も現れる電車は、シンジを目的地へ運ぶというより、シンジをシンジ自身の内面へ連れ戻す。車両は進んでいる。窓の外も流れている。だが彼は進まない。むしろ、逃げられない自分の中へ沈んでいく。

新海誠にとっての電車は、誰かとすれ違う運命である。『秒速5センチメートル』において、電車は会いたい二人を運ぶはずのものだ。しかし、遅延し、乗り継ぎを狂わせ、雪の中で時間だけを引き延ばしていく。そこでは恋愛感情よりも、ダイヤと線路と天候の方が強い。人は会いたいと思う。だが身体は、運命のように遅れていく。

庵野秀明の電車は、内面へ向かう運命。
新海誠の電車は、すれ違いへ向かう運命。
どちらも好きな作家である。
しかし、両者の作品にしばしば現れる、あのフェティッシュな電車への愛着だけは、どうにもピンとこない。
線路、踏切、車窓、ホーム、架線、発車ベル、向かい合わない座席、流れていく風景。それらが青春や孤独や運命の記号として美しく配置されることは分かる。分かるのだが、こちらの身体はそこに拒絶反応が出て乗れない。
僕にとって電車は、郷愁でも詩情でもない。もっと単純に、逃げ場のない箱であり、乗り換えを間違えれば正確に人生を遅らせてくるシステムであり、知らない誰かが敷いた線路の上に身体を預ける行為である。
彼らは電車を詩にできる。
僕は電車にツバを吐く。
彼らは線路の先に運命を見る。
僕はその線路に、自分の自由が吸い込まれていく恐怖を見る。
だから、近年の庵野秀明作品にいまいち乗り切れない理由も、そこにあるのかもしれない。彼はいまだに、電車に運ばれている。
『ウルトラマン』、『仮面ライダー』、『ガンダム』、『宇宙戦艦ヤマト』。どれも強烈であり、日本の文化を形作ってきた巨大な線路である。それらを愛する気持ちは分かるし、庵野秀明にとって、それらが人生を運んできた路線であることも分かる。
だからこそ乗り切れない。

あまりにも線路が整備されすぎている。どこから来たのか、どこへ向かうのか、何を継承し、何を再構成するのか、その運行計画があまりにも機械的に見えてしまう。
僕が見たいのは、正しく継承された列車ではない。脱線である。あるいは、線路の上を電車ではなく人間が走り出す瞬間である。
その意味で、新海誠なら『天気の子』の、線路の上を走る場面はよかった。
運命に運ばれるのではなく、自分の足で走る。その瞬間だけ、線路は人間を運ぶ装置ではなく、人間が運命に逆らうための道になる。

『すずめの戸締まり』が好きなのも、後半で映画が車のロードムービーへと変節していくからだ。新海誠の映画にとって、電車や駅や踏切はほとんど宿命的な装置である。人と人を出会わせ、引き離し、すれ違わせ、時間と距離を可視化する。
しかし『すずめの戸締まり』は、そこから少し外れていく。旅は鉄道のダイヤに回収されず、車に乗り、道路を走り、人に拾われ、偶然の出会いを重ねていく。あれが好みだった。電車のように正しい路線を選ぶのではなく、車で走る。寄り道する。止まる。拾う。乗せる。話す。予定がずれる。
その瞬間、移動は目的地へ向かう作業ではなく、世界と偶然に接触する時間になる。
僕は運命よりも偶然を愛している。
電車に乗ると、自分の身体があらかじめ敷かれた線路に回収されていくような気がする。行き先も、停車駅も、乗り換えも、到着時間も、すべてが先に決まっている。その中で許されているのは、正しい一本を選ぶこと、それだけ。
散歩には、正解がない。立ち止まってもいい。引き返してもいい。目的地を忘れてもいい。偶然見つけた店に入ってもいいし、失敗してもいい。
散歩は、僕を目的から逃がしてくれる。
『バニシング・ポイント』という映画が好きだ。
あの映画の車は、電車のように線路の上を走らない。バスのように停留所をなぞらない。時刻表もなければ、乗り換えもない。ただ、走る。目的地へ向かっているようでいて、本当は目的地などどうでもいい。重要なのは、どこへ着くかではなく、走っている間だけ、自分の身体がまだ誰のものでもないという感覚なのだ。
『バニシング・ポイント』は完全な自由の映画ではない。最初から消失点へ向かっている映画でもある。それでも電車とは違う。電車は運命に乗せられる。『バニシング・ポイント』の車は、運命へ突っ込んでいく。同じように終点があるとしても、身体を預けて連れていかれるのと、自分でハンドルを握ってそこへ向かうは全然違う感覚だ。

決まっている運命があるなら、受け入れる物語よりも、それを破壊する物語が見たい。
線路が敷かれ、ダイヤが組まれ、駅があり、改札があり、乗り換えがあり、人間の身体はそこへ物のように押し込まれていく。そんな駅は壊してほしい。
『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』が京都駅を破壊するように。
京都駅は単なる建物ではない、日本の巨悪を集約させた醜悪な建築だ。鉄道、観光、都市、資本、導線、巨大建築、移動のハブ、すべてが集約された場所である。あの日本で最も醜悪な建築物が、怪獣映画の中で破壊されることには、単なるスペクタクル以上の快感がある。

それは都市の導線が壊れる快感であり、人間を正しいルートに従わせてきた巨大なシステムが、一瞬だけ無効化される快感である。
僕は京都駅のような場所にいると、自分が建築の中にいるというより、巨大な導線処理システムの一部にされているような気がする。
ここを歩け。
ここで曲がれ。
ここで上がれ。
ここで降りろ。
ここで乗れ。
ここで買え。
ここで待て。
黙れよ。
空間のすべてが、人間を流すために設計されている。その精緻さが、気持ち悪い。
それよりも、僕は道端の廃墟の方を愛している。何の役にも立っていない建物。目的を失った壁。使い方を知らない空間。そこには導線がない。こちらが勝手に立ち止まれだけ。
そこには、偶然が残っている。
目的を見失い、プランを破壊することの快楽。
それを求めている。
電車とバスが死ぬほど嫌いだ。
移動が嫌いだからではない。僕は移動に、もっと自由であってほしい。もっと偶然に開かれていてほしい。もっと間違えてよく、もっと立ち止まれてよく、もっと引き返せてよく、もっと目的からそれていい。
電車は、運命へ向かう。
バスは、ルールを押し付ける。
駅は、人間をシステムに流し込む。
都市は、移動できる人間だけを普通と呼ぶ。
その線路から降りたい。
運命に運ばれるのではなく、自分の足で歩きたい。ハンドルを握りたい。道を間違えたい。知らない店に入りたい。写真を撮りたい。立ち止まりたい。目的地を忘れたい。
運命よりも偶然を愛している。
だから、僕は電車とバスが死ぬほど嫌いなんだ。
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