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生成AIは『箱の中の羊』の夢を見るか?

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『箱の中の羊』の最大の見どころは、大悟の演技である。以上。


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まず、綾瀬はるかの演技は、いつも通りというべきか、いつも以上に相当酷い。
基本的に、目を剥く、口を大きく開ける、呆然とする、その程度の幅しかない芝居とも言いたくないような挙動を見せられて、いったい何が魅力的でカメラは彼女を捉えているのかと、半ば唖然とするほかないのだが、問題は綾瀬はるか個人だけにあるのではない。
芝居の勘どころを持ち合わせていない俳優が、国民的俳優でござい、とばかりにカンヌのレッドカーペットを平然と歩くさまを前にして、背筋が凍ってしまうのは、それを成立させている映画界の構造そのものが見えてしまうからである。
ことほど左様に、是枝裕和は俳優の演技を捉えることに執着していながら、このような芝居を許容してしまうからこそ、彼はやはり政治的に成功した人なのだろう、と思わずにはいられない。
そういえばこの人は『空気人形』の監督だったな、と久々に惨憺たる出来栄えの作品を前にして、過去の出来損ないのフィルモグラフィーまで立ち上がってしまうのだから、映画というものは恐ろしい。


本作は、『ブレードランナー』、スピルバーグの『A.I.』などの系譜にある作品でありながら、それら以上のことは何もしていない。
むしろ、是枝裕和が執拗に繰り返し、反復し続けてきた、喪失を抱えた人々の映画でしかない。


小津安二郎に関して、是枝は、中心人物がすでに亡くなっており、その死者の視点から作られている映画である、という考察をしている。
彼自身の映画もまた、映画が始まる以前から失われている不在の人物を巡る作品が、フィルモグラフィーの大半を占めている。
劇中では、アンドロイドなのに悲しそうに見える、寂しそうに見えるのは、それを見る人間自身の心の反映である、という分析が行われるのだが、これはそのまま、小津安二郎の映画が本当に不在の人物の主観による映画なのかどうかではなく、是枝裕和自身の内なるテーマが表出していることを示しているようにも思える。
つまり本作におけるアンドロイドは、新しい問いを生む存在ではなく、是枝裕和がこれまで繰り返してきた喪失の主題を、SF的な装置に置き換えただけのものに見えてしまう。


心の底から最悪という気持ちが沸き起こるこの映画に対して、そもそも「この話、面白いのか?」と思えてならないのだが、『奇跡』や『海街diary』の傑出した出来栄えを前にして、そのような感情を一切抱かなかった身としては、同じような話を繰り返しているにもかかわらず、ショットや芝居の巧拙によって、こうも印象が覆されるのだと、映画の残酷な批評性を改めて思い知らされる。
サン=テグジュペリからの引用のどうしようもなさ、あるいは“箱の中の猫”を思わせ、言うまでもなく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の響きまで漂わせておきながら、その広がりをタイトルからしか感じさせない、この寒々しい作品、その前にあって、唯一の救いは、大悟の芝居である。

大悟の演技は、普段の大悟とそれほど変わりない。
にもかかわらず、そこにちょっとした深みが見える。
東京03の角田の方が演技経験は豊富であるにもかかわらず、大悟の方が圧倒的なスター性と表現の豊かさを兼ね備えているように見えるのだから、このあたりは才能と言うほかないだろう。

前作『怪物』を経て、是枝裕和と坂元裕二が枝分かれした結果、本作は『片思い世界』と同じように、特殊な人間たちによる独自のコミュニティが築かれる話にもなっている。
そして、そんなところまで共鳴しなくていいのに、どちらも大失敗に終わっている。
いっそのこと、子どもたちの殺害に関するミステリーに割り切ってもよかったのではないかとも思うのだが、『三度目の殺人』において、是枝裕和がサスペンスやミステリーにまったく向いていないことを知らしめてしまった以上、そうはできなかったのだろう。


『万引き家族』以降の是枝裕和の迷走が、本作には如実に現れている。
パルムドールまで獲り、集大成感のあった作品を経たあと、どうにも袋小路に陥っている。
その果てに『ルックバック』を撮るところまで追い詰められてしまったのだろう、とすら推察してしまう。

そして本作を前にすると、その出来栄えにも決して期待はできないだろう。



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