【無料記事】僕は『かぐや姫の物語』を語らない
高畑勲の遺作になった――なってしまった――『かぐや姫の物語』が放送されるたびに、SNSの映画界隈では現代のフェミニズムを照らし合わせて、先見性があるだのと、もん切り方の感想が飛び交う、そのさまに、10年以上前の作品ではあるが、いやむしろ、そのずっと前から高畑勲は女性を物語装置ではなく、人間として描いているのにも関わらず、そういった事実を無きことに、『かぐや姫』のみに照準をあわせ、現代のなんたるかを語るという愚挙が平然と繰り返されている様に、半ば呆然とするほかないのだが、もちろんフェミニズムの側面を併せ持つこの作品は、どれほどの言葉を連ねても、その原画の一枚の雄弁さに勝ち得ず、その傑出した面白さを文章で言い切ることは不可能に近いとはいえ、しかしながら、長年のファンとして、この作品を待ち望んだ身としては、現代のフェミニズムといったトレンドに矮小化されて映画が語られることに、身を挺して抵抗したい一心で、こうして具にもつかないことを書き連ねているわけで、この映画が正しくフェミニズムを描いているのは、昨今の男女間の健全な性愛すらも軽蔑するような、ラディカルフェミニズムという言葉に括るにしては、幼稚なネガティブセックスの価値観に対して、真っ当に女性を描き、人間として立ち上がる瞬間を捉えてるわけで、それは捨丸との飛翔シーンが、セックスの素晴らしさを語るとか、そんな凡庸な感性に回収されるのではなく、セックスや欲望を肯定したうえで、なお人間が描かれていることに感動するからであって、もちろんそれが、立ち上がってくる場面の線の美しさは、ミニマルな表現を突き詰めた結果生まれてくる表現の曖昧さなのだが、それはそれとして、本作をミニマルな作品にしているにも関わらず、機械的な側面を併せ持つのは、例えばオートチューンを使った歌唱表現は、デジタルの産物というよりかは、ミニマルな表現の到達点であって、それをカニエ・ウェストやKREVAや中田ヤスタカが響鳴しているのは、言うに及ばず、中田ヤスタカと百瀬義行と高畑勲が線で繋がる事実は、本当はどうでもいいことなのだが、思わず言及せずにはいられないのが、この作品の恐ろしいところなのであり、一般的に伝わるわけもないことが、映画にとっては見逃してはならない重要なことであるという矛盾を抱えた表現が、地球の豊かさを享受するが、月という幽世に向かわざるを得ないかぐや姫の心持ちと重なることに、止め処無い感動を覚えるからで、それまでの高畑勲作品、『アルプスの少女ハイジ』や『おもひでぽろぽろ』がとうとう到達し得なかった時点に到達したことに、驚くとともに、旅立ちが作品の核であった母をたずねて三千里や赤毛のアンの逆転として、最後に旅立っていくかぐや姫の後ろ姿に、10年の時を経て、亡くなってしまった高畑勲を重ね合わせて思いを馳せてしまうのは、本人からすると不快な面持ちであろうが、ファンとしては涙を押し留めることはできないわけで、かぐや姫が都会で豪遊し、文化を学び、美しくなっていくところには、ひとりの女性としても、子どもとしても、感情の振れ幅が、正しく描かれていて、『魔女の宅急便』のようなわかりやすい少女の郷愁という薄暗さはそこには無く、内面を描くとかそういった文学的な要素を廃して、外面を描くことに終始する丁寧さに胸を打たれるのは、高畑勲が積み上げてきたアニメーションの歴史を総括している、というような野暮ったい表現は避けたいのだが、事実日本のアニメーションは高畑勲なくしてその歴史は無いわけで、彼が過小に評価されていることに、腹を立てているのは、現代のアニメ好きをなのる輩たちが、結局のところ、流行りが好きなだけでアニメーションのなんたるかを哲学的に受け取っているわけではないということに、絶望しているからに他ならず、それが、このかぐや姫の物語をフェミニズムの問題としてしか語らない、矮小化された現状を鋭利に照射しているから、私はくどくどとこの作品を、安易に語らないようにしているのだ。
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