「愚」を誇る人たち
中国最古の字書『説文解字』を引くと、「愚」は、
愚は戇かなり、心に従い禺に従う。禺は猴の属なり、獣の愚かなる者なり。
と記されています。「禺」は、サルの類です。これに「心」を付けた「愚」は、獣と同じレベルの才智しか持たないことを言います。
「愚」の字そのものの成り立ちを見る限りでは、もっぱらマイナスの意味になりますが、先秦の思想においては、必ずしもそうではありません。
一 儒家の「愚」
『論語』「陽貨」篇に、次のようにあります。
仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。
「仁」を大切にしても、「学」を好まなければ、「愚」の弊害に陥る。
儒家の最高の徳目である「仁」(思いやり)を心掛けても、学問を伴わないと、知恵を欠いて「愚蒙」のままになる、と孔子は語っています。
一方、「為政」篇に見える「愚」は、ただの「愚蒙」とは異なるニュアンスを帯びています。
吾、回と言うこと終日、違わざること愚なるが如し。退きて其の私を省みれば、亦た以て発するに足る。回や愚ならず。
私は顔回と終日語り合ったが、彼は私の言うことをただ聞いているだけで、まるで愚か者のようだった。しかし、あとで彼の私生活を観察してみると、私の方が啓発を受けるところがある。顔回は愚か者などではない。
「愚」字そのものは貶義で用いられていますが、孔子第一の高弟である顔回について語られている「愚」には、原義を超えた意味が含まれています。
孔子は、貧困の中でも「道」を楽しでいる顔回のことを「賢なる哉、回や」(「雍也」篇)と讃えています。饒舌に議論を挑むことなく寡黙であたかも愚か者のように見える人物こそ、実は真の賢者であるとしているのです。
「公冶長」篇では、衛国の大夫甯武子について次のように語っています。
甯武子は、邦に道有れば則ち知、邦に道無ければ則ち愚。
甯武子は、国に「道」が行われている時は知者として振る舞い、国に「道」が行われていない時は愚か者のように振る舞った。
甯武子の「愚」は、「佯愚」すなわち「愚」を装うものであり、「佯狂」と同じく、明哲保身の処世態度を表すものです。
「愚者」や「狂者」として振る舞うことは、時局を見据えて臨機応変に行動し、賢明に出処進退を見極めて災禍を避けるという所作であり、乱世に身を置く知識人のしたたかな知恵でした。
また、「先進」篇では、孔子が弟子たちを評して次にように語っています。
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭なり。
高柴は「愚」、曾参は「魯」、子張は「辟」、子路は「喭」だ。
弟子たちをそれぞれ「愚」(おろか)、「魯」(鈍い)、「辟」(偏向)、「喭」(粗野)と評しています。いずれも、彼らの欠点を指摘したものですが、孔子は彼らを譴責しているわけではありません。
これらは、各人の性格上の特質であり、短所ではあっても、見方によっては長所ともなりうるものです。
真面目過ぎて融通のきかない高柴を「愚」と呼ぶのは、「愚直」(馬鹿正直なまでに真っ直ぐ)という意味であり、質朴で誠実な人間の本来のあるべき姿としてむしろ肯定的に評価しているのです。

二 道家の「愚」
『老子』第二十章には、以下のような一節があります。
衆人は皆余り有り、而るに我独り遺さるるが若し。我は愚人の心なる哉、沌沌たり。俗人は昭昭たり、我独り昏きが若し。俗人は察察たり、我独り悶悶たり。
世間の人々は皆有り余る才智を持っているが、我一人だけ何も持たず取り残されているかのようだ。 我の心は「愚人」のようにぼんやりとしている。世俗の人々は明らかに物事を分かっているが、我一人だけ暗闇の中にいるかのようだ。 世俗の人々はてきぱきと賢そうであるが、我一人だけぐずぐずとして分別がないかのようだ。
ここの「愚人」は、道家の唱える「道」(タオ)を体得した聖人のことを言うもので、「衆人」や「俗人」と相対する存在です。
「愚人」の心態を形容する「沌沌」は、混沌とした無知のさまを言います。「衆人」や「俗人」らが物事に明るく賢いのに対して、「愚人」はぼんやりとして役に立たない無能者のように見えます。
しかしながら、そうした「愚」なる生き方こそが、「道」に順った人間本来の生き方であるとするのが、老子の言わんとするところです。
第六十五章には、次のようにあります。
古の善く道を為むる者は、以て民を明らかにするに非ず、将に以て之を愚にせんとす。民の治め難きは、其の智多きを以てなり。
古代によく「道」を体現して政治を行った者は、民に物事をはっきり分からせようとはせず、むしろ「愚」のままに保とうとした。 民を治めるのが難しいのは、民が知恵を持ちすぎるからである。
ここの「愚」は、無知という意味ではなく、無垢で淳朴なままの状態にあることを言います。
老子は、「道」を体得した聖人(つまり為政者)ばかりでなく、一般の民衆もまた同様の心態に至ることを理想としています。
老子が「愚」を肯定するのは、民を統治しやすくするための「愚民政策」とは異なり、「小国寡民」(第八十章)の非文明的共同体を人間社会の本来の在り方とする道家の政治理念に基づくものです。

「愚」字は、基本的には、マイナスの意味で用いられるものです。他者について言えば侮蔑や譴責の言葉になり、自分自身について言えば自嘲や自卑の言葉になります。
一方、「愚」字がプラスの意味にも用いられることは、上に例を挙げたように、先秦諸子の言説の中にすでにその素地を見ることができます。
こうして、「愚」字の褒貶が反転すると、やがて「愚」は思想的、文学的なニュアンスを帯びるようになり、詩文の世界では、世俗の価値観を否定したり、自負を込めた孤高の境地を歌ったりする際、文人たちは敢えて「愚」を自任するようになります。
三 杜甫の「愚」
杜甫は、しばしば自らを「愚」と称していますが、それは、字面通りの自己卑下の称ではありません。
例えば、「上韋左相二十韻」は、次のように歌っています。
才傑俱登用 才傑 俱に登用せられ
愚蒙但隱淪 愚蒙 但だ隠淪す
長卿多病久 長卿 多病 久しく
子夏索居頻 子夏 索居 頻りなり
卓越した才能を持つ人たちは、みな職を得て任用され、
愚か者のわたしだけが、世に埋もれて落ちぶれている。
司馬長卿のように、病気がちで床に伏せることが多く、
子夏のように、寂しく一人暮らしの日々が続いている。
自らを世間から隠れて沈淪する「愚蒙」な人間としながらも、その一方で、消渇(糖尿病)を患った長卿(司馬相如)や、離群索居した子夏(孔子の弟子)に、自らの境遇を重ね合わせて歌っています。自分にも漢代随一の文豪や孔子の高弟に匹敵する才能があるのだと、暗にアピールしています。
また、「自京赴奉先縣詠懷五百字」には、次のように歌っています。
杜陵有布衣 杜陵に布衣有り
老大意轉拙 老大にして 意は転た拙なり
許身一何愚 身に許すこと 一に何ぞ愚なる
竊比稷與契 窃かに比す 稷と契とに
ここ杜陵の地に、一人の無冠の平民(=杜甫)がいる。
年老いてますます世渡り下手で不器用になってしまった。
優れた人材だと自負する様は、なんと愚かなことだろう。
心中ひそかに、自分を稷や契になぞらえているのだから。
世渡り下手な老いぼれの平民でありながら、自らを稷(農政を司った舜帝の賢臣)や契(教育を司った舜帝の賢臣)になぞらえている自分を身の程知らずの愚か者だと歌っています。自嘲と自負、劣等感と自尊心の入り混じった複雑な心境を吐露しています。
官界での不遇を自らの「愚直」な性癖に帰し、天下国家を事とする儒家的な使命感を以て「愚忠」を守り通した杜甫の姿には、「愚」という言葉の自虐的な響きの中に、胸に秘められた尊大なまでの自負心を見て取ることができます。

詩人が、自らを「愚」と呼ぶのは、表面上は、謙遜や自卑であっても、内心ではそう認めているわけではありません。
昔の中国の詩人は、ほとんどの場合、職業は役人であり、中には朝廷の高位高官も含まれています。彼らはみなエリートの知識人であり、「愚」は最も彼らに似つかわしくない文字です。
にもかかわらず、詩人たちが敢えて「愚」を自任し、時に自負の意を込めて「愚」たることを誇るのは、「狂」や「痴」と同様に、貶義の概念に自らの哲学と処世観を託す中国古代の文人精神の表象にほかならないのです。
*本記事は、以下の2つの記事からの抜粋を改編したものです。
