【漢文トリビア】心の無い「愛」
中国では簡体字が使われています。
1950年代から60年代にかけて、「識字率の向上」と「筆記の効率化」を目的に制定されました。
簡略化にはいくつかの決まった方法があります。
● 文字の一部分のみを残す。
「開」→「开」
「醫」→「医」
● 偏旁を簡略化する。
「語」→「语」
「紅」→「红」
● 複雑なパーツを略す。
「風」→「风」
「龜」→「龟」
● 同音の字で代替する。
「穀」→「谷」
「後」→「后」
● 草書体や俗字を利用する。
「書」→「书」
「東」→「东」
簡体字を制定したのは、教育上の学習効果や、日常生活での利便性を優先したものです。
確かに簡体字は便利です。
繁体字の「廣」(ひろい)は、簡体字では「广」と書いて三画ですみます。
「豐」は「丰」と書いて四画、「漢」は「汉」と書いて五画です。
簡体字は覚えるのが容易で、書く時間も節約できます。
しかしながら、便利さと引き換えに、漢字本来の意義や意趣が失われてしまっているのも確かです。
「龍」を「龙」、「鳳」を「凤」と書いてしまったら、あまりにイメージが軽くなって、厳かさも美しさも飛んでしまいます。
「驚」の字は、もともと馬が敏感で驚きやすい動物であることから「馬」が含まれているのですが、簡体字の「惊」では肝心の「馬」が消えてしまっています。
「麺」は、簡体字で「面」と書きますが、麦粉で作った食べ物であることを示す「麦」が消えています。文脈無しに見たら「顔」なのか「ヌードル」なのか分かりません。
古代思想や古典文学では、こうした残念な例がいくつもあります。
その典型的な例を『論語』と杜甫の詩で見てみましょう。
『論語』「顔淵篇」に、
樊遲問仁。子曰,愛人。
(樊遅仁を問う。子曰く、人を愛す。)
――樊遅(孔子の弟子)が「仁」とは何かと尋ねた。孔子は言った、「人を愛することだ」と。
さて、この一文を簡体字で表記すると、
樊迟问仁。子曰,爱人。
となります。
「愛」の簡体字「爱」をよく見ると、真ん中の「心」がなくなっています。
「仁」は儒家の最高の徳であり、人に対する「思いやりの心、慈しみの心」を言うものです。
その「仁」を定義する「愛」という言葉から「心」を取り払ってしまっているのです。儒家思想の魂を抜き取ってしまったようなものです。

一方、古典詩の世界では、簡体字にすることによって、詩人が歌おうとした情景や思念が味気ない無機質なものに見えてしまいます。
杜甫の「春望」を例に挙げてみましょう。
第一句は、
國破山河在
(国破れて山河在り)
とあります。
冒頭の文字「國」は、簡体字で表記すると「国」になります。
「国」は、昔から存在する文字で、新たに作られた文字ではありませんが、「國」の簡体字として制定されました。
繁体字の「國」は、4つのパーツから構成されています。
「囗」:くにがまえ。領土を囲む城郭を表します。
「一」:自分たちが守るべき土地を表します。
「口」:その土地に住む人々(人口)を表します。
「戈」:ほこ。土地と人々を守るための武器を表します。
つまり、繁体字の「國」は、「城郭の中にいる人々が武器を手にして守るべき自分たちの土地」という力強い国家観を表している文字です。
ですから、この「國」という文字には、「軍事」や「防衛」といった緊張感や切迫感が漂ってるのです。
「春望」で「國破」と歌い起こしているのは、この4つのパーツがバラバラになってしまうこと、城郭も土地も人も武器も破壊されてしまうということを言い、そこに悲哀と絶望が醸し出されるのです。
一方、簡体字の「国」は、くにがまえの中に「玉」が入っています。
この成り立ちには諸説がありますが、一つは、くにがまえの中はもともと「玉」ではなく「王」であったとする説です。
ですから、これは「王(もしくは諸侯)が統治する城塞都市」という意味になります。
また一説には、くにがまえの中の「或」の字体がくずれて「玉」になったと言います。
これも、もともとは「王」と書いていたのが、のちに点が付いて「玉」になったとされます。
いずれにしても、「国」には「國」のような緊張感や切迫感はありません。
「國」と「国」の違いは、単なる画数の問題ではなく、国家というものをどう捉えるかという根本的な考え方の違いが反映されているのです。
「國破」は、「土地を囲む城郭が破壊されて、武器を手に戦った多くの兵士が戦死した」というのが元来の意味です。
一方、「国破」は、「城郭の中にいた統治者が命を落とした、あるいは逃亡していなくなった」という意味になります。
このように、「國」と「国」では「破」の対象が異なり、視点が全く異なるのです。

漢詩は、朗誦する「聴覚的」な芸術であり、また書き記す「視覚的」な芸術でもあります。
古典文学に簡体字を使ってしまうと、視覚的効果が薄くなってしまうばかりでなく、その文字が元来持っている意味や象徴性が分からなくなり、固有の妙趣や気韻まで削がれてしまうことになります。
現在、中国ではほぼ全面的に簡体字が用いられ、若者の中には繁体字が読めない書けないという人が多くいます。
一方、台湾・香港では、現在も継続して繁体字が使われています。
わたしは古い人間で頭が固いのかもしれませんが、中国古典の研究教育に携わっていたせいで、横組みの簡体字にはどうも違和感があります。
現役時代、自分で古典文学を鑑賞する時や、教室で古典の講義をする時は、必ず縦組み繁体字の書籍や教材を使っていました。
中国は漢字の文化、漢字は中国の文化そのものです。
簡体字の制定は、効率と簡便を求めたことによって多くの文化的、伝統的なものを失ったと言わざるを得ません。
台湾・香港が今も頑なに繁体字を使い続けているのは、ある意味では、一種のアイデンティティの表れでもあります。
将来、政治的に簡体字の使用が強要されるような状況にならないことを願っています。
